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いつかの船は行方知れず


また多分帰ってくるだろう。だけれど、この部屋は使うことはないだろう。
エレンは大学に入学すると同時に一人暮らしをする。だから今、今まで使っていた部屋の片付けをしていた。
学習机の引き出しの中にあるプリントやら教科書やらなんやらを、ばさばさと重ねて、名前のあるものはマジックで消して捨てていく。英語の小テストだったり、あるいは政経の授業のメモだったり。端っこに友達の落書きと自分の落書きとが書いてあるものもあって、思わず笑みがこぼれる。やはり高校は楽しかったと、思い出すのは楽しいことばかりだと。
引き出しの中のものを全部ゴミ袋に突っ込んで、もうないかな、と引き出しの奥に手を突っ込む。
「ん?」
手に何かが当たった。プリントとは違う、少し厚めのもの。カツンとそれが奥にぶつかって鈍く音を立てた。
引っ張り出すと、それは名刺だった。
「…あ」
それには確かに見覚えがある。確か高校一年目の夏休みのことだった。あの日は特に暑くて、母にも熱中症に気をつけるようにと言われていた。


家に来いよ。
ジャンがそう言ったのは、夏休みに入る前日の、終業式のことだった。
高校に入って、幼馴染のアルミンとミカサとは変わらず仲が良かったが、ジャンとは同じクラスで喧嘩することはあれど敵対するという訳でなく、喧嘩するほど仲が良いという正にそれであった。その他にもライナーやベルトルト、マルコ、コニーなどクラスでいつもだいたい仲良くしているメンバーで夏休みにも集まろうとなった。そこでジャンがそう言ったのだ。
それから日時を決めて、八月の半ばの日曜日、一番暑い時に、エレンの家からは二駅離れたジャンの家に男子がわさわさと集まることになった。

その日はとても暑くて、母に家を出る前に、熱中症に気をつけなさいねと言われていた。確かに外は太陽が強く照りつけていて、アスファルトを溶かしそうだった。
夏休みの日曜の電車の中は空いていて、クーラーの冷気が寒いほどだった。電車に揺られながら、エレンは携帯でジャンにもらった地図の写真を捜す。彼の家は駅から20分程のところにあるらしく、ジャン曰く「少し遠いけどクーラーがんがんの部屋が待ってると思えば全然頑張れる」距離らしい。
まあ歩いてる間に倒れるほどやわでもないし、頑張るしかないなとエレンは、キャップを被り直して電車を降りた。

それでもやはり、その日は暑かった。
エレンは道を歩きながら、そろそろやばいかもしれないと思い始めていた。指先がやけに冷たい気がするし、目の前に黄色の斑点のようなものが見えてきた。なるべく日陰を歩こうとしても、太陽が空のちょうどてっぺんにある時間帯だから影がない。地図を見る限り、あと少しでジャンの家に着く。なのに、足元がふらついて倒れそうだった。エレンの進んでいる方向には、通行人はいない。このまま倒れてしばらく発見されないままだったらどうなるんだろうと頭の隅で考えて、遂にエレンはその場に崩れた。

目が覚めると、そこは真っ白な部屋だった。薬品の匂いが漂っていて、周りではぼそぼそと話し声が聞こえる。少し頭を動かすと、パタパタとサンダルの音がして話しかけられた。
「あら、目が覚めた?よかった…気分はどう?」
白衣を着た物腰の柔らかい女性は見るからに看護師で、ああ病院にいるんだと分かった。
エレンがもごもごとうまく答えられないのを見て、看護師はじゃあまだ安静にしててねと、またどこかへ行ってしまった。
何故病院にいるんだろうと思っていると、男が近づいてきた。ペタペタとビーサンの足音がした。
「目が覚めたのか、よかったな」
彼と一緒に近づいてきた医者が、彼が倒れたエレンを見て救急車を呼んでくれたのだと説明した。
「コンビニの帰りに歩いてたら、目の前のやつが急に倒れてな…確かに足取りがふらふらしているとは思っていたが」
驚いた、と驚いていないように彼は言った。整ったその顔にはしかし何の感情もうつっていないように見えた。元来感情豊かで、今一番自己主張の激しい年頃のエレンには、彼の無表情に見える顔が不思議に見えて仕方がなかった。今考えれば、だが、何のおかしさもなかった。エレンは幼かった。
「ありがとう…ございます」
かすれる声で何とかお礼の言葉を絞り出して、目礼だけした。
「ま、気をつけろよ」
彼はそうとだけ言うと、なにかカードのようなものをエレンの手に握らせて、周りの医者や看護師に会釈をして部屋から出て行った。ビーサンの音が、ペタン、ペタン、とだんだん遠ざかって行くのを、エレンは思うように動かない体の中で聞いていた。

そのあと、エレンはジャンたちに連絡を入れてその日の予定をキャンセルし、病院で採血などをしてそのまま家に帰った。母はとても心配していて、父も黙ったままだったが、ずっと眉根をよせていた。
家に帰って、男のくれたカードのようなものの存在を思い出し、ポケットに入れていたそれを引っ張り出した。それは名刺だった。会社名と、彼の名前、それから電話番号。
その時はほっぽっておいたのだが、2、3度かけてみようと思って番号を打ってみたことがあった。けれど、何を言えばいいのかも自分がどうしたいのかもわからず、結局途中まで打ってやめてしまった。名刺はいつしか忘れ去られて、引き出しの奥に埋まってしまっていた。



その名刺を、今エレンは掘り起こした。そこには変わらず、会社名と彼の名前と電話番号が書いてある。
エレンは携帯に手を伸ばした。画面をタップしてロックを解除し、電話の画面を開く。
は、と息が漏れた。
電話番号を打って、通話ボタンを押す。なぜだが分からないが異常に高揚したような気分のエレンは、呼び出し音を聞くと一気に頭から体温が冷えて行くのを感じた。
出なければいい、もうこの携帯を使っていなければいい。そんな心地さえして、そしてそれは叶った。
機械的な女性の声が、無表情にこの番号は現在使われておりませんと告げた。エレンはほっと息をついて、電話を切った。
彼に電話をして、何をするわけでもなかった。ただよく分からない衝動的なものに突き動かされたのか、好奇心からか、彼に電話するということがこの上なく魅力的に思えていた、数十秒前。ほんの数十秒しか経っていないのに、エレンの中からは完全にその衝動が消え去っていた。
エレンは携帯を片手にぼうっと窓の向こうのそらを眺めていたが、階下からの母の「お昼よ」という声に、手に持っていたものを床に置いて、部屋から出て行った。リヴァイ、という彼の名前の書かれた名刺はただの紙切れだった。


131024 こまち