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橙のなみだ


隣で、ひゅう、と息をのむのが聞こえる。
初めてではないと聞いた。が、隣の男はあたかも生まれて初めて見たかのように、感嘆の声を漏らすこともできずにただじっと、見つめている。頬に涙を光らせて。
自らの瞳と、似た色をしたそれを、ただ、じっと。


***


壁に近い古城で、夜、いつものように体を重ねて、エレンはぐったりと横になる。
絶頂を迎えた後でひくひくと痙攣する身体をぼんやりと意識しながら、は、は、と短い息を繰り返す。じっとりと汗をかいた額にかかる髪を、リヴァイの骨ばった指が優しくかきあげる。普段の彼からは想像できないほど優しく。もし天使がいるなら、もしそれらが触れられるのだとしたら、こんな具合にそっと触れるんだろうな、と。事後の彼はいつも、触れたらさっと溶けて消えてしまいそうな霧のように優しい。
そんなリヴァイの心地よい感触に、エレンはそっと、その大きな目を瞼で覆おうとした。
途端、ぺちぺちと頬を叩かれる。
「な、なん、」
なんですか、と問おうとした口はしかしリヴァイのそれで塞がれる。
そっと唇が触れ合って、すぐに離れていった。
「少し休んで、ひと段落したら…、出かけるぞ」
どこへ、とか、何しに、とかは気になったけど、今はそれよりも最近外に出ることなんてなかったから、こんな夜更けにだけれど少し興奮した。
そんなエレンの輝いた目を見て、リヴァイは微笑んだ。まあ、微笑んだというにはあまりにも分かりづらい、表情筋のほとんど動かないような微笑みではあったが。
平和だなあ、と、柄にもなくエレンは思った。壁外では巨人がうようよいて、もしかしたら今にも壁が壊されるかもしれないのに。1人残らず、巨人を駆逐してやると、誓った。けれど。
ーーこの人と、こんな風に触れ合ったら、もう。
世界には、自分たち2人しかいないような錯覚に陥るから。つくづく、平和だなあ…、と。
時計もない地下室の中で、ただ時間の流れを裸の肌で感じてこのまま流されてしまいたいと、本気で願った。


そのまま少しして、身体のだるさがある程度抜けた頃、リヴァイに着替えろと言われてエレンは着替え始める。何故か立体起動装置もつけて行くと言われたので、何をするんだろうと本気で訝しんだが、とりあえずベルトを身につけて、立体起動装置をセットして、終わりました、と隣でもうすでに着替え終わっていたリヴァイに声をかける。
行くぞ、静かにしろよ、とエレンに言って、リヴァイは階段を登りはじめた。エレンもおとなしくその後ろを追う。
2人はそのまま馬小屋まで行って、それぞれの愛馬に跨る。ここではじめてエレンが口を開いた。
「あの、兵長、どこへ…」
「いいから黙ってついてこい」
最後まで言えずに自分の言葉に被せたリヴァイに、ふぁい…と情けない返事をする。するとしゃきっとしろ、と鋭い言葉が飛んできたので、ハイッと気合を入れて、背筋をしゃんとし直した。

馬が土を蹴る音しかしない。今日は雲があまりなくて、月が行く先を照らしていた。どうやらエレンたちは壁の方向へ向かっているらしかった。
まさか壁外に行くなんてこと、こんな夜に、しかも単独行動で、まさかな…とリヴァイの後方を走るエレンは内心どこへ行くのか気になって仕方が無い。月は下弦の月で、まだそんなに高くは登っていないけれどそろそろ夜明けが近いだろう。


壁の真下に来た頃、リヴァイが馬を止めた。馬から降りて、適当な木に手綱を結びつけておく。
「今から、壁に登る」
「え、」
何がしたいんだ、壁に、登る?そこで一体、何をするというのか。
エレンが疑問に思っているうちにリヴァイはさっさとワイヤーを伸ばして登ってしまっている。
「あ、ちょ、待ってください兵長!」
慌ててエレンもその後を追う。
てっぺんで待っていたリヴァイに一言、遅い、と言われてエレンは首をすくめた。
「兵長、あの、一体なにしようとしてるんですか?」
「ん?いや…待ってろ。待ってれば分かる」
ふふふ、と心なしかリヴァイ笑ったような気がして、エレンは困ったように眉根を寄せた。リヴァイがここまでするのだから相当いいことに違いない。なんなんだろう、その疑念ばかりが胸の中に渦巻く。
「そろそろだな…」
リヴァイが呟いて、エレンの手をそっと握った。エレンは少し驚いて体を固くしたが、すぐに緊張をといて、リヴァイに寄り添う。

「あ、」
空が、白んできた。
「きたな」
隣でリヴァイが小さく呟いたのが聞こえた。
向こうで、鳥が一斉に飛び立つのが影で分かる。

だんだんと、空が、明るくなってゆく。
白くて、水色で、ああ、橙が、


息を、のむ。
言葉は、発せられない。
発したら、穢してしまいそうで、折角壁に邪魔されていない、地平線から昇っているのだから、

嗚呼。



ちらりと、隣のエレンを見やる。
つう、とその頬を涙が伝っている。オレンジに照らされたその顔に、ほう、と見惚れる。
お前が太陽に惹き込まれているように、とリヴァイは声に出さずに話しかける。お前のその横顔に惹きこまれている。
太陽と同じように美しいだなんて。いや、むしろ太陽を美しいと思う日が来るとは思っていなかった。エレンと出会って、世界は色を変えた。春の若草色も、淡い色合いの花も、夏の強い緑も、色とりどりの花も、秋の紅葉も、冬の裸の枝木も、空の青さも太陽の明るさも月の神秘さも星の輝きも。ありきたりな言葉だけれど、全部エレンが教えてくれた。確かにエルヴィンに拾われた時も世界が広くなったけれど、それでも。エレンは色のなかった世界に、色を与えてくれた。
そしてなにより、その、眼が。大きな、眼が、自分を見つめる度、救われる気持ちになる。
きゅう、と握った手に力を込めれば、エレンも握り返す。手と同じように心臓もきゅんと掴まれたようで、相当重症だなと苦笑して、エレンを見上げる。
「…兵長、ありがとうございます」
オレ、こんなに朝日を綺麗だと思ったことなかったです、と。頬に伝う涙を拭うこともせずに、ふふ、とエレンは笑う。
よかった、こいつをここに連れて来て。心からそう思った。こんなに美しい笑顔と、涙と、体温を。
エレンの顔は、太陽に照らされて、赤く、橙に輝いていて、炎に照らされた得体の知れない不思議な美しい生物のように感じた。

橙の涙が、ぽつりと服に染み込んだ。


130620 りーく