ただ願うのは私の幸せだけでした 「オレ、いつか海の向こうの、ずーっとずっと向こうまで行くんだ!」 兄はそう言って、夕陽でオレンジ色に染まった顔をくしゃくしゃにして笑った。二人してまだ幼かったのに、エレンにとって彼の微笑みは王子様が微笑んでくれているように見えていた。 エレンには二つ上の兄がいた。同じ名前で、顔もよく似ていて、瞳の色まで同じだった。使用人達は二人が並んでいるところを見ると不気味そうに顔をしかめた。エレンはそれが嫌だった。ただ、似ているだけなのに。二人とも全く違う、一人の個人であるのに。それもこれも自分が生まれてきたから、女として生まれてきてしまったからなんだと思っていた。 しかしそんなエレンに兄はいつだって優しくしてくれた。使用人達が顔をしかめればそれを注意して、エレンが落ち込んでいれば必死になだめて額にキスをしてくれる。エレンは兄が大好きだった。お話に出てくるどんなに勇敢なナイトも、どんなに素晴らしい領主様も、兄には叶わなかった。 だから、彼がいつか海に出ると言ったときにエレンは絶望にも似た何かを感じた。寄せては返す波、潮の匂い、風に吹き上げられる砂を愛していたエレンには理解ができなかった。いつまでも彼にこの地にいて欲しかった。エレンはいつか、もう5年後には他の領地の領主様の妻になっているだろう。けれども、ここに帰れば兄に会えるのだという確固たる事実が欲しかった。それなのに、荒れ狂う激しい海に出て、この地に来ても会えないかもしれなくなるなんて。 エレンに兄を止めるという選択肢はなかった。何故なら、兄を愛していたから。エレンは「素敵だね」と答える他なかった。 「もし、オレがセイレーンだったら」 エレンは呟いた。 日の当たらない地下にある図書室で、彼女は本を広げて空想に耽っていた。松明がちろちろと揺れて空気を動かしているようだった。 「そしたら、兄さんの乗る船と一緒にどこまでも行って…そのうちに陸に帰りたいって言ったら、兄さんも海の中に連れて行って、セイレーンになる、そして一緒にずっと暮らすの」 エレンは声に出して本に向かって喋りながら、ふふふと笑った。涙が頬を伝った。 「それか、オレが男だったら?でもそれじゃあオレに、任せた!って言って出て行っちゃうしなあ」 兄の前で、エレンは絶対に、兄が海へ出たいと言っていたことについて何も言わなかった。悲しいなんて素振りは見せなかった。ただ、地下の図書室でだけは、彼を想って泣いた。 「ほんとに行っちゃうのかな?そしたら…オレ、何しようかなあ。きっと兄さん、すぐ帰ってくるよって言って、長い間帰ってこないの…きっとそう。そうしたらオレはどこかに嫁ぐんじゃあなくて、女領主になるのかな」 はーあ、とエレンはため息をついて目元を拭う。背中を本棚にもたれて目を瞑った。 もし自分がセイレーンだったら…もし自分が自分でなければ……。 *** 「それじゃあ、まあ、すぐ帰ってくるよ。今は春だから、夏を3回も越したらまた帰ってくるよ」 エレンの兄は今日、海へ出る。大きなガレオン船、船首にはエレンが何度も夢見たセイレーンが彫られていた。美しい顔を地平線の向こうへ向けて、髪をなびかせて。 「いってらっしゃい、兄さん」 彼は幼いあの日のように、夕陽を浴びてオレンジ色に輝いていた。エレンにとって、彼はいつだって王子様だった。エレンはこの地の領主様の娘で、お姫様と周りに呼ばれるのに王子様は旅立ってしまう。 こんなことってあるの、とエレンは薄く自嘲気味に微笑んだ。 「オレはいつだってここで祈って、待ってるから」 兄はありがとうと言ってエレンの額にキスをした。彼の唇は暖かくて、柔らかかった。 エレンは泣かなかった。一滴だって涙を零すことはしなかった。 「いってらっしゃい」 最後に貴方の唇にキスをしてみたかった。でもそれは、貴方がいつか帰ってきてからにしましょう。 背を向けた兄に、エレンは縋りつきたくなる。行かないで、置いていかないで、と。エレンは唇を噛んで足を踏ん張って、頭を高く上げた。鼻の奥がツンとする。 逆光で兄の姿はもうシルエットでしか見ることはできなかった。大きな太陽が船をギラギラと照らした。 ああ、いつか帰ってくるのなら、その時まで。 「さようなら、オレの王子様」 この世で一番、私の愛する人よ、どうかご無事で。 040314 こまち 野屋さんお誕生日おめでとうございます!いみわかんなくて雑ですみません!!! 素敵なことがたくさんありますように。 |