春 昼過ぎ、ふと、そういえば妹はどこに行ったのだろう、昼食は一緒に食べたのにと辺りを見回した。エレンの今いるリビングにはいないし、洗面所を覗いてもいない。ならば二階だろうかと階段を上がると、正面にあるベランダの窓の向こうに人の姿があった。いくら晴れていて昼間だとはいえ、真冬に外にいるのは寒いだろうに。窓に近寄ると彼女の姿がよく見えて、コートを着ていないのがわかった。ぺらぺらしたシャツ一枚と、スウェットだけ。見るからに寒そうな彼女に、エレンは思わず窓を開けた。冷たい風がエレンの頬を撫ぜる。 「兄さん…どうしたの」 太陽の光に当たって優しい茶色に光る髪を風になびかせ、ベランダの手すりにもたれかかってぼうっとしていた彼女はエレンのたてた音に驚くことなく振り返った。そして母親似の笑顔でエレンに微笑みかける。まるで寒さなど感じていないように、彼女の周りだけ春の空気に包まれているかのように。 「エレン、それはこっちの台詞だよ。寒くないの?」 彼女はエレンの言葉に、また少し笑った。 庭に植わっている枇杷の木が風で葉を揺らした。 「あったかいよ」 それきりで、また彼女は遠くを見た。エレンは、とても寒いのに何故だか楽しそうなエレンを見て、女とは理解し難いとつくづく思った。それを見透かすように、彼女がまた笑った。だが気に障る笑い方ではなかった。 「わからないの?青くて…雲がいい感じでしょ、あのへん(エレンは遠くを指差して見せたが、エレンにはよくわからなかった)とか。ほら、公園の芝生も緑のと、枯れてるのがあるし、ほらヘリコプターの飛んでる音も…鳥も沢山鳴いているでしょう」 「ンー…」 エレンはなんと言ったらいいのか分からず、結局適当にすることにした。しかし彼女はそんなエレンを意に介することもなく、ひどく楽しそうだった。相変わらず風は冷たい。 「ねえ、じゃあ散歩に行こう」 こんな、突っ立ってるんじゃなくて。体を動かせば温まるだろうし。 しかしエレンの提案に彼女は首を縦には振らなかった。 「やだよ、だって寒いんだもん」 唇まで尖らかすというオプション付きだ。 「なんで?だってここも道路も、同じじゃないか」 「同じじゃないよ、ここは暖かいもの」 「…へえ」 エレンはいよいよ女というものが本当に分からなくなった。否、女と一括りではなく、妹のエレンがそうであるだけで、世の女性は違うのかもしれない。胸の内で首を傾げながら、「体、冷やさないようにね」と言って窓を閉めた。妹は小さく笑って頷いた。 *** 次の日、妹のエレンが散歩に行きたいと言い出した。外は昨日と同じように晴れていて、だったら何故昨日自分が誘った時に頷かなかったのかとエレンは思ったが口には出さなかった。彼女は昨日のように楽しそうに笑って、早く早くとエレンを急かした。 エレンがダウンを羽織って玄関を開けると、外で妹が待っていた。彼女はやはり、楽しそうだった。 河原に向かって二人並んで歩く。お互いに黙ったまま。居心地の悪いものではなく、安らげるような沈黙だった。隣のエレンは歩道の脇の人家や畑を眺めながら歩いている。家から出てすぐの、まだ団地の中を歩いていた頃はしきりにエレンの顔を覗き込んできたりチラチラと見てみたりしていたが今はたったの一瞥もくれない。それがさみしいといった、そんな訳ではないけれど。 「あ、ペンペン草」 エレンが隣で嬉しそうな声をあげた。彼女の視線を辿ると、確かに畑の際に生えている。よくまああんなに目立たない所のものを見つけたものだと少し感心した。 「ねえ、ペンペン草だよ、兄さん」 「二回も言わなくてもわかるよ」 エレンがそう言うと、彼女は頬を膨らました。 「ちがうよ、わかってないよ。だってほら、 ーーーー」 ほら、の後は何だったのか分からない。強く風が吹いたのだ。それはエレンとエレンの髪を巻き上げ、畑の土を吹き荒らし、コンクリートの上を走り去って行った。そのおかげでエレンは、彼女がなんと言ったのかを聞き逃してしまった。 だが、彼にはやっと分かった。彼女は昨日から、いや、もっとずっと前からかもしれない、彼にこのことを伝えようとしていたのだ。 エレンは大きく息を吸いこんで、その匂いを肺に見たそうとした。なんだか、むずむずする。駆け出してしまいたい、このまま歩いていたい、どこまでも行ってしまいたい。エレンは思わず微笑んでしまうのを止められなかった。 「エレン、春だね!」 自分でも分かる、満面の笑みで妹に言えば、彼女はけらけらと声をあげて笑った。そして彼女も同じように満面の笑みで彼に言った。 「やっとわかったの、兄さん」 もう、つま先から春が体を侵していた。間違えようもなく、春だった。 250214 こまち 拓蔵さんへ、相互記念です!すっごい遅れちゃってすみませんそしてエレエレ♀兄妹がどことなくきちっててすみません… 心からの愛と、感謝を込めて。 |