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さようなら、あなたに愛は込めないわ


二人で最後に心から笑ったのはいつのことだっただろう。もう随分昔に、そんな表情は置いてきてしまった気がした。
エレンは隣の席に座って俯くエレンの横顔をじっと見つめた。彼は俯いているため、頭のてっぺんめがけて貫こうとするお日様の光も跳ね除けて顔を影で覆ってしまっている。どんな表情をしているのかわかなかった。どれだけ長くの時間を一緒に過ごしてきても、彼のことを全て知ることはできなかった。全知全能の神でさえもーーもし本当にそんな神がいるのならばの話だけれどーーむりなことのような気がした。
西日が差し込む窓に視線を移して、日の光で目を焼いた。何も見たくない。エレンの顔でさえ、あれほど愛おしいと思っていたー否、愛おしいと思っている、彼のことでさえも。耳を塞ぎ目を瞑るだけでは足らない、全ての神経という神経をいっぺんに遮断して、何も感じないようにしてしまいたい。
「…エレン」
そんな風に思っているのに、聴覚はどうしてか、いつもよりも鮮明に音を拾ってしまう。隣の彼からぼそりと放たれた声は、エレンの脳みそをぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
「なあに」
仕方なしにエレンも応えた。もう話は終わったと思っていたのに。
でもだったら何故、自分も彼もずっと椅子に座り続けているのだろう。家のリビングの椅子は確かに座り心地はいいけれど、話は終わったのだしこんなに居心地の悪い雰囲気はさっさと離れてしまうに限るのに。まるで接着剤でズボンのお尻と椅子がくっ付けられてしまったみたいだった。
「ごめんね」
彼は何に対して謝っているのだろう。彼自身も分かっていないのだろうか。何故、彼は謝るのだろう。
「ンー…うん」
でもエレンは何がとは聞かない。だって聞きたくないのだ。何故なのとは思うけれど、その答えを欲しているのかと聞かれれば即座に否と答えるだろう。
エレンはまた、今度はちらりとだけ隣のエレンを見た。彼はやはり、まだ俯いていた。彼の顔は影で真っ暗で、見えない。

エレンは無理やり椅子から自分のお尻をひっぺがす。腰も重くて、まるで自分の力じゃあ支えられないんじゃないかと思う程だったけれどもなんとかテーブルに手をついて耐えた。思えばいつだってこんな風に辛い時は隣でエレンが支えていてくれたのだ。
ハ、とため息とも自嘲の笑いともとれぬものが微かにエレンの口から漏れた。全く、笑い出してしまいそうだ。
その音にハッと顔を上げたエレンの頬は、涙に濡れていた。日の光がキラキラと反射して、喜んでいるようだった。
「なんで、お前が泣くの」
エレンの口からは自分でも驚くような低い声が出た。自分は怒っているのだろうか。そう自問して、そうかもしれないと自答した。エレンはエレンに対して怒っているのだ、多分。
エレンの低い声にびくりと肩を震わせた彼は、唇を震わせて何かを喋ろうとした。だが声帯は震えず、漏れ出るのはヒュウヒュウという息の音だけだった。
「…もう、いいから。」
読点をきっちりと置いて、終止符を打つ。もう、いい。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた頭の中を整理したいし、これ以上話していたら利己的な自分自身ばかりが出てきてしまう。
本当は時間を置いて、もう一度話した方がいいのかもしれない。世のカップルもそうするだろうし、人間同士の関わり合いの中で、もう一度落ち着いて話し合うべきなのだろう。
…それでも。
エレンは一度、目をぎゅっと瞑って、また開ける。
それでも、もう、終わりだ。
テーブルについていた手を離して自分の部屋へと向かう。みしりと床が軋む。
「ッあ、エレン!」
焦ったようなエレンの声が追いかけてきて、ぱしりと手を掴まれた。エレンは振り向く。
「あ…」
振り返ったエレンの表情に何を思ったのか、顔を涙で光らせたエレンは掴んだ手をゆっくりと離した。
「意気地なし」
その言葉は彼に向けたのか自分に向けたのか、エレンは自分でも分からなかった。それでもその言葉は確実に彼の心を抉ったようで、エレンは肺がほんの一時的な優越感と尾を引く自己嫌悪に満たされるのを感じた。
エレンの手を離したエレンは、唇を噛んで、それでも笑おうとしたらしかった。必死に目尻を下げ、口角を上げようとしている。いつもと変わらぬ西日が彼の頬を輝かせた。

エレンは情けなくなって、くるりと踵を返して逃げるように早足で自分の部屋に向かう。ああ、クソ、クソ。彼の手は温かった。彼は自らエレンを手放したくせに、慈しむような目でエレンを見ていた。
泣きたいのは、こっちなのに。
温かかったエレンの体温を思い出して、エレンは手を握りしめた。何かを握り潰すように、もう原型をとどめぬような形にひしゃげさせるように。


210214 こまち