あれは彼女が泊まりに来た夜の事です。
「うわっ、いきなりのノロケっスか?」
黙って聞いてなさいよ。切原くん。
あの夜、一緒に居間でテレビを見ていました。彼女は意気揚々とお菓子の袋を開けて、俺の横で食べ始めたんです。
俺は彼女を残して席を立ち、トイレに行きました。
トイレのドアを閉める瞬間、やはり何時ものように彼女が乱入してきました。
特別速く閉めたつもりはなかったんですが、その一瞬でいつも半身は入り込んでくる彼女が手だけを滑り込ませる事しか出来なかったのは、俺を警戒してギリギリの位置から走り込んで来たからかも知れませんね。
「ちょっと待って下さいよ」
煩いですよ、切原くん。何ですか。
「その時点で彼女がお化けじゃないッスか!!」
何を言ってるんですか。
彼女もこの合宿に来てるマネージャーですよ。
「永四郎の彼女は永四郎への愛が故にどこからでも永四郎へ一歩で跨げるんさ。
永四郎への愛があいつの全方向の縮地方を可能にしてるさぁ」
「あいつにはどうやっても勝てる気がしないんばーよ」
甲斐くん、平古場くん、説明有難う御座いました。話を戻しますよ。
とりあえず、何時ものように『永四郎!トイレ手伝ってあげる!!』と半身を入れてきたなら戸を思いっきり閉めてやるところですが、流石に手では痛いだろうと思って戸を掴んでいた手を引き剥がし、捻り上げたら手を引っ込めたので、その隙に戸を閉めました。
それだけではすぐに開けて来ますから、すぐに鍵も閉めましたよ。
俺が取っ手から手を離したと同時に、直ぐ様ガチャガチャと必死にノブを回し始めました。爪や硬貨があれば開けられるような鍵から取り替えたばかりなので絶対開きませんがね。
それを忘れていたのか暫くガチャガチャとノブを捻ったり、何かを引っ掻く用な音が聞こえていました。
俺が出る頃になれば今度は開けることを諦めたようで、戸を叩き始めました。
全く…ホントに煩い。
煩いですよ。止めなさい。と言っても全く止む気配はありませんでした。
ここで開けてしまっては開けた瞬間に滑り込まれ、『永四郎と一緒に入る』などと意味のわからないワガママを言われますから、俺はこう言ってやったんです。
いい加減にしなさい。ゴーヤ食わすよ。
と、いつもより低いトーンで。すると、ピタリと音は止みました。やれやれと思って手を洗い、扉に振り返ると、呆れた事に彼女は諦めていませんでした。
扉の上に小窓があるんですがね、そこに手を当ててしきりにガラスを引っ掻いていたんです。
彼女の行動の阿呆さには慣れてきたと思っていましたが、これには流石に苛々しましたよ。舌打ちをして、扉を蹴ってやりました。普段ならここまでする事はないので、驚いて止めるかと思ったんです。
しかし彼女の手は未だにガラスを引っ掻いていたんです。キイキイという音に心底うんざりした俺は、扉を開けて沖縄武術を仕掛けてやろうと思いました。仏の顔も三度まで、という事を教えてやろうと。
まだガラスを引っ掻いているのを放って、一瞬で扉をあけました。しかし、今まで居た筈の彼女の姿は扉の前から消えていたのです。
「隙を突いて縮地法で逃げたな」と思い、居間まで走りました。
そこには、間抜け面でテレビを見ている彼女が居ましたよ。全く迫真の演技だと再び呆れました。
大きな音がしたけど、何?とお菓子を頬張る彼女に文句を言おうとして、俺は固まりました。
彼女のよく手入れされた薄桃色に光る指先に目を奪われ、そして思い出したんです。
あの扉から出た手は
あのガラスを引っ掻く手は
爪が真っ赤だったという事を。
侵入する赤い爪
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