2011/11/20 17:57 中庭を小走りで通り抜けていた俺は、その呼び声にぴたりと脚を止めた。 「…忍足医院長」 「なんやムズ痒いわ、その呼び方。まあ…病院内でも所構わず『侑士』て呼び捨てにする謙也先生よりはええけど」 医院長は苦笑しながら中庭のベンチに腰掛け、煙草を取り出して火を灯す。 「一服せぇへん?」 「いや、子供出来てから止めたん」 「ああ…せやったな」 煙を燻らせながら、医院長は言葉を選んでいるようやった。切れ長の目が眼鏡の奥で右往左往しとる。 「いきなりこんなモンが机の上に置いてあるんやもん、驚いたわ」 「見てくれはったんか」 「まだ中身は見とらん。…どないしたんや、先生みたいな優秀な薬剤師に居なくなられたら、患者さんも残念がるで?」 「…先日、裁判で娘の親権は俺が持つ事に決まったんや」 「おん」 「娘は俺の実家で、毎日俺が帰るのずっと待っとる。今の時間やと起きとる娘に『ただいま』も『おやすみ』も言われへん」 「母子家庭だと手当が貰えるから、この子はあたしが育てる」と元妻とその彼氏がケラケラ笑っていた横で、ずっと俯いていた娘を守りたくて裁判にまで縺れ込んだ。結果、俺と一緒に居られる事になった娘。 でも今の仕事ではあかん。このままやと、愛を知らないまま娘はあっという間に大きくなってしまう。 ぐちゃぐちゃになった頭の中を必死で整理していた俺を、忍足医院長はじっと見ていた。 「俺にも嫁さんと息子おるけどな、大変なんやってなぁ。家事と育児の両立」 「…」 「白石先生は家事も育児も、仕事も男手ひとつで全部やらなあかん。並大抵な事やない思う」 「…せやから、俺…」 びっ、と医院長が俺に掌を向けた。言葉を遮られたと思った俺は、そのまま口をつぐむ。 「17時」 「は…?」 「明日から先生が帰宅する時間や」 「…医院長、何を」 「9時から17時のシフトで残業なし、土日祝日休み。その辺の薬局で同じ時間帯働くよりもええ給料出すで」 「…」 「男手ひとつ。それでオカンにもならなあかんのは大変や。娘さんの世話すんのは誰にだって出来るわ。でもな先生」 「娘さんのオトンの代わりは誰もおらへんのや。明日からも宜しゅう」と俺の肩を叩いて、医院長は病院の中に戻っていった。俺の書いた辞表をびりびり破きながら。 |