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※禪院恵になった世界




「もうあなたとは会いません」

 出会い頭の第一声に、なまえは持っていたスマートフォンを落とした。画面を割りたくないとあれほど気を遣っていたものを、恵のたった一言だけで簡単に落とした。液晶画面がアスファルトに向いたままで、結構な勢いだったから、きっと割れている。でもなまえは拾おうとはしなかった。ぱくぱくと口が開いたり閉じたりするのを、恵はどこか遠くから見ているような気持ちだった。

「……? な……」
「別れます」
「なんで……」
「分かりませんか?」

 恵は、自分の声が冷ややかなことを、静かに驚いていた。キツい物言いに、なまえの体がびくりと震える。恐怖で体がかたまるのを、はじめて見た。

「もう俺にあなたは必要なくなったし、好きじゃなくなりました。別れる理由なんてこれで充分でしょう」

 思ってもいないことをつらつらと述べることのできる最悪な自分を、本当のことを話さない自分を、許さないでほしい。
 みるみるうちに目に涙が溜まってゆき、あふれたものは頬を伝った。ズズ、と鼻をすすっても、どんどん鼻水が出てしまうのを恵はしっかりと見た。最初で最後の泣き顔だった。どうせなら、このいつも余裕のある年上の彼女を、うれしいことで泣かせたかったのだが、もう遅い。なまえは何度も袖で拭き、顔を覆った。止まらない涙は泣き声になって空気を揺らす。

「申し訳ないですけど、部屋に置いてる俺の物は全部処分してください。もういらないので。俺の部屋にあるあなたの物は送りますから心配しなくていいですよ」

 なんの正当性もないひどい言いように反吐が出るようだったが、文句を言っていいのは恵のほうではない。なんでとなまえが大声で喚きでもしてくれたら、この気持ちは晴れるのだろうか。一瞬目を閉じたが絶対に晴れないことを分かっていたし、すべて恵の我儘だった。

 なまえの左手には指輪がいつも通りあるが、恵の左手はまっさらだ。頷くでもなく、首を振るでもなく、なまえは声をあげながら泣くだけで、口を開きはしなかった。スマートフォンはずっと拾われずに落ちたままだ。