※学生時代
何度も同じ夢を見る。現実を繰り返している。
食えない先輩が、一人で強くなってゆく。予定より階級が上の呪霊。死んだ友人。疲弊する体。重たくなっていく空気。先輩が呪詛師になった。付き合っている人が怪我を負い、数日間意識が戻らない。気持ちがうまく癒えないまま言い渡される次の任務。自分より強い術師が呪いに飲まれて死んでいく。
怖いという感情が消えたことはないし、それで良いと思っていた。あるべきものだと思っていた。しかし、日に日に濃くなってゆくそれを誤魔化せなくなってきているなと自覚したのはすぐだった。
最後に行ったのは自室ではない部屋だった。寮ですらない。受け取った鍵は二つ目で、この二つ目を、今から返しにいく。
この鍵を使って何度も無断で(正確に言えば無断ではない)入ったことがあるのに、今日だけはどうしても使えない。自分が最近どこで何をしていたのかは、優秀な同期が話しているに違いない。開けてくださいとメールを送信した後に電話を鳴らし、インターホンも押す。部屋の主が出てくるのを待つ時間は、今までのどの瞬間よりも長く感じた。
「やべー寝てた」
ドア越しの聞こえにくい声が、自分の決断なのにひどく悲しい。キーホルダーを外した鍵がポケットの中にいる。今日は、これを返しにきたのだ。
出てきたなまえさんは、見覚えのあるくたびれたTシャツに短パンと、今の今まで寝てましたという見た目だった。
「ひさしぶり……あれ、スーツ? 初めて見た。かっこいいじゃん」
「ありがとうございます」
「鍵忘れた?」
「いえ、持ってます」
「ふうん?」
「…………」
「うーん……、とりあえず上がる?」
気を使わせているのが嫌でも分かり、一瞬だけ目を閉じた。ほどほどに軽いが、この人が他人の機微には敏感であることをちゃんと知っている。入らせてもらうと、煙草の匂いが残っていた。テーブルの上にある灰皿には何本か吸い殻があり、新しい住居でも、友人が出入りしているのがうかがえる。
「オレンジかサイダー」
「……オレンジで」
わざわざ自分のために、買ったばかりのオレンジジュースのパックを開封してくれるところが好きだった。洗わなくていいように使い捨てのコップを使うところも。なまえさんはローテーブルの向かいにどかりと座りこみ、携帯電話を取り出した。
「で?」
「術師を辞めます。もう先生方には報告しました」
「そっかあ。大学行くの? 就職? まあどっちでも、七海はまじめに座学もやってたか。やるねえ」
何も言えなかった。すう、と声色が冷える。
「で、それだけじゃないよね?」
「……」
「まさか言ってもらえるの待ってんの?」
「……、いえ、違います」
何を言われるか分かっている表情を踏みにじったのは自分だ。嫌な空気を作ったのは自分だ。全部後回しにして、この人を傷つけた。最初に言えばよかったのに。いや、最初じゃなくても、最後を選ぶことはしなくてもよかったはずだ。顔を上げると、声と同じく冷え切った視線が自分を射抜く。
「……」
別れてほしい。別れませんか。どれも合っているようで、合ってないようにも思えて、言葉が選べない。息ができなくて、それなのに目がそらせない。
「七海」
「……」
「別れよっか。辞めるなら、ちゃんと呪術から、ぜんぶから離れたほうがいいと思う。周囲の人間も含めてね。わたしは辞める予定ないから七海の隣にはいられない」
「……すみません」
「謝らなくていい。浮気したとかじゃないんだしさ。自分のことを決めただけでしょ? 意地悪しといてアレだけど、わたし、七海のこと応援したいと思ってるよ。これから進学にしろ就職にしろ、どこに行くにしても楽な道じゃないんだから、やっぱり不安要素は排除しとかないと。術師なんかと一緒にいちゃダメ。誰かといたいなら、術師じゃない普通の人と一緒にいてほしい。そっちのほうがいい。絶対」
本当にそうなのか、今は判断できない。決めたことが正しいのかそうじゃないのかは、すぐに分かることではない。すべてがそうだ。それなのに、人生は選択の連続で、考える前に強いられる。できることなら正しいことをと思うが、そうはいかないのだ。
一年先に生まれただけで、なまえさんはこんなにも遠い。彼女だって忙しいし、自分と同じように傷ついている。在学中に同級生の一人が教室から去り、もう一人は医学部に入学し、もう一人は突然教師を目指し始め、その勉強に忙しく仕事を少し押しつけられている、らしい。どう息抜きをしているのか、知らない。
全てを任せてしまう自分が情けなくて仕方がない。それでもうまく言葉にならない。
「頑張ってね」
どうやって部屋を出たのかは覚えていない。鍵はしっかりと返却した。最後に頭を撫でられた。
数年経っても連絡先は消せないままで、何度も同じ夢を見る。帳の内側。もう入るのことないそこで、私はじっと俯いている。
210114 低空飛行