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「海行こうか」

 その声に目をさますと、主人であるなまえが自分を見上げていた。くたびれきった顔とスーツ、風に吹かれたままの髪の毛。影のかかった体。ダダリンは寄りかかっていた壁から体を離す。なまえは持っていた黒い鞄を舵輪に引っかけた。先に階段を降りていく主人のうしろについていく。
 なまえのダダリンは一般的な個体よりちいさかったが、それでも部屋に入るにはおおきすぎるから、いつも玄関の前で過ごしていた。なまえの部屋はアパート二階の奥だし、そもそもアパートにはなまえとあと一人しか住んでいなかったから、ダダリンが玄関先で一日中ずっとたたずんでいても咎める人はいなかった。行ってらっしゃいとおかえりがすぐに伝えられるから外で過ごすのは嫌いじゃなかったが、なまえの帰宅がだんだんと遅くなっていくことに気づいてからは、不満を持っていた。

 なまえがいつからこんなに歩くのが遅くなったのかダダリンには分からない。不自然なほどしずかな道中で、靴の音だけが響いている。なまえを追い越さないよう慎重に進む。アパートからでも潮のにおいを感じる程度には海は近かったが、足をはこぶのはかなり久しぶりだった。

「砂浜で倒れてたの覚えてる?」
「わたしが大学入ってすぐだった」
「わかめとかゴミとか砂がいっぱいくっついててさあ、取ってやったらなついて家までついてきた」
「高いのにモンスターボール買わされた。一人暮らしはじめたばっかで金ないのに。でも外にずっといるからボールいらないの。アンタ飯食べないからまあ結果的にはそんなに金かかってないけど」

 覚えている。なまえに見つけてもらったのも今のような遅い時間だった。
 浜辺には誰もいなかった。ポケモンさえも。なまえは靴を脱いだ。ダダリンはかけられていた鞄を体をふって落とした。どちらもら砂の上に放ったまま海水を進み、足首が浸かったところでなまえは振りかえりダダリンに手招きをする。錨の先が波を切り、ダダリンはなまえのすぐ後ろにひっついた。

「わたし、やりたいこと見つからなくて」
「でもアンタ拾ってさあ、結構たのしくて、一緒の部屋で暮らしたいなーと思いはじめたんだよね」
「今のアパートじゃ無理。わたしはあそこわりと好きだけど、一緒に暮らすならでっかい部屋に引っ越すしかないでしょ」
「で、卒業して就職して、もちろんすぐに引っ越せるなんて思ってなかったよ」
「たった一年で疲れちゃった。自分のことだから分かってたけど、こんなに頑張れないんだーって」

 藻屑がしゅるりと伸びてなまえの手首にからまる。引くとなまえはダダリンに寄りかかるようになった。ちらと後ろをみて、ひとつ息を吐いてから錨に尻を乗せる。ダダリンのおおきな体はびくともしなかった。

「アンタどこの海で生まれたの?」

 どこだったか。忘れたというよりは、ダダリンにはもう、どうでもよいことになっていた。

「帰りたいと思わない?」

 思わない。藻屑が今度は指にからまった。

「いざ海に来ると……」

 なまえが何をしようとしていたのか、ダダリンは理解していた。ついていくつもりだった。ギュ、と強く藻屑を握られるが、痛いとかそういうのは、ダダリンは、感じない。

「……わたしのこと乗せたまま動ける?」
「おお、ちょっと海の上散歩しようよ」
「……なにその海藻は!」
「海上で落ちたりしないようにって? 大丈夫今日はしないことにした。すべって落ちたらまあそのときはそのときだけど、アンタ、たぶん落とさないでしょ、そんな気ぃする。乗ったことないけど」

 フワとダダリンの大きな体が浮いて、なまえが足をおろしていても海水がつかなくなるほどに高くなった。ふしぎなことに怖くはない。風をきり、ふたりの体が冷えてゆく。吐いた息はまだ白くなっていない。

「……ふふ……寒い」

 ぽろりと目から涙がこぼれるのを見たが、知らないふりをした。でも、進むスピードはなまえにばれない程度に遅くした。




201214