狐の嫁入り
「君麻呂さん、お散歩行きましょう!」
朝早くに部屋を訪ねてきた美雪は、開口一番そう口にした。
ほぼ無理やり身支度をさせられ、強引に連れ出されたのは里の外…しかも木のまばらな草原と言っても過言ではない林だ。さすがに危ないと注意するも「大丈夫ですよ」と笑う美雪を見ると、つい許してしまう。いざとなればボクが守ればいい、確かに問題はない。
嬉しげに鼻唄を歌いながら前をゆく美雪を見て、来てよかったと早々に思った…のだが。
「あれっ…?」
美雪も気付いたようで、空を見上げた。ぽつ、ぽつ、と水滴が木々や草花にぶつかり小さな音をたてる。
「こんなに晴れてるのに…」
確かに空は青く、日が照っている。つまりこれは。
「狐の嫁入りか…」
「キツネさん、ですか?」
とにかく美雪を濡らすわけにはいかない。少し走って、大きく枝を広げた樹の下に入る。
根元にあぐらをかいて美雪を見上げると、どうやら察したらしい。えへへと照れ笑いをしながらボクの足の上に座った。腹の前に手を回し、頭に顎を乗せる寸前まで近付けた。湿った匂い。
「少し濡れたな…寒くないか?」
「…ふふ」
美雪は小さく笑うと、これまた嬉しそうにボクの腕を抱いた。
「これくらいへっちゃらですよ…それにとても、温かいです」
「…そうか」
雨はさほど強くはないが、体を冷やせば病の素だ。美雪の肢体を包み込むように、やんわりと力を込めた。
「あ」
こちらを見上げる焦げ茶の瞳。それと同時に少し水分を含んだ髪が露出した胸元をくすぐる。
「そういえば、さっき言ってたキツネさんってなんのことですか?」
「…狐の嫁入り」
「そう、それです!」
興味津々とばかりに向けられる視線。それにこちらも真っ直ぐ視線を返し、答える。ただ、ボクも別に詳しいわけではないのだが。
「今回のように、空が晴れているのにも関わらず雨が降ることを、狐の嫁入りと呼ぶ」
「へぇ…」
美雪は晴れたままの空に視線を移す。
「なんでそう呼ぶんですか?」
…やはりそこを聞くか。
「ボクも理由は知らない」
「…そうですか」
太陽の暖かい光を見つめたまま、美雪は少し目を細めて呟いた。
「キツネさんが結婚する時、雨が降るんでしょうか」
「…そうかもしれないな」
正直、そうでなければこの言葉はなかっただろう。
「せっかくの晴れ姿なのに、雨に濡れちゃうなんてちょっと悲しいです」
そう口を尖らせる美雪の眼は、空を掴んで離さない。
「…あっ」
彼女の口から吐息がこぼれる。突然、雨が止んだのだ。美雪もそれに気付いたのだろうと思い、帰ろうと口に出そうとしたとき、再び美雪の目がボクを捉えた。
「君麻呂さん!空!空見てください!」
はしゃぐ美雪に促され顔をあげる。太陽の眩しさに一瞬目を細めるも、美雪が何を見せたいのかはすぐにわかった。
「すごい…!こんな大きい虹、わたし見るのはじめてです!」
太陽すらも跨ぐほど大きな虹色の架け橋は、遠く遠くの山に裾を下ろし、ボクらの視界を占領した。
「ねぇ、君麻呂さん」
すぐ下から美雪の高揚した声が届く。
「きっとキツネさんは、大切な日にこれを見るために、雨を降らせてるんですね」
意識してか、無意識か、美雪の腕にも力がこもった。
「そうかもしれないな」
ボクの返事を聞いて嬉しそうに頷く君が、ただただ愛しかった。