今日は失敗してしまった。奥様と息子様はお優しいから、できるだけここにいさせていただきたい
だから、私が思ったより役に立つと知ってもらわなきゃいけないのに

「気分転換をと思いまして。」
「・・・はい。」

奥様は美味しい料理の作り方や着物の縫い方などを教えてくれるし、息子様なんて多忙なのに合間で私に構ってくれる
だから、気分転換より復習をうんとやりたい。なんて言える訳ない

「ありがとうございます。」
「私も母上も、**さんの味方ですからね。」

え?と首を傾げれば、息子様は柔らかな笑みで私を見つめ、見つめられた私はぞくりと粟立った腕をこする
どうしました?とさっきの私のように首を傾げる姿に、より寒気を感じた

自分に向けられる笑顔の意味を、知らないはずないのだから。自分に向けられる意識は、総じてそういうものだった

「わ、たし、その、」
「はい。」
「・・・ありがとう、ございます、」

笑みを自然に消して特に表情なく近づき、のばされた手が頬に触れた瞬間、私は情けない声を上げてへなへなと座り込んでしまう
知らずに噛んでいたのか、唇のあたりにじわっと血の味が広がった

殴る蹴る薬を盛られる刃物で傷つけられる、お前なんていらないと役立たずと責められる。結構修羅場的な体験をしてきたと自負してる(いやな自負)けれど、あの時、背後に忍び寄ってくる癖に肌に感じた殺気を、私はまだ覚えている
殺気を向けられた(文字通り「殺してやる」と)ことはこっちにきてから沢山あった。でも、あんなにお腹の底に響くような、背筋が凍ってひびが入ってくようなのは初めてだった

「っ、あ、ッ!」

こわいこわいこわい!どうしよう、優しくしてから殺す気だったなんて考えなくはなかったけど、本当に優しく接してくれたから
甘いのはわかってる。でも、心が勝手に期待をしてしまったの

「・・・、」
「それ以上、自分を傷つけるのは控えて下さい。」

目の前にしゃがんだ息子様が手拭いで私の口元を拭い、その手は頭へ
ひょいととられたのは小さな蜘蛛で、息子様の指で丁寧に救われ地面におろされた蜘蛛はサカサカとどこかへ行ってしまった
呆気にとられる私に苦笑した息子様は、穏やかに目を細める

「虫があまり得意ではないと聞いていたので何も言わずに取ろうとしたのですが、ゴミがついているとでも言えばよかったですね。気が利かなくてすいません。」
「そ・・・んな、いえ、苦手な私がいけないのですから・・・」

謝らなければ、でもなんて?殺されると思いました?こわいんです?そんな失礼重ねられない

「もう少しで広いところへでますから、行きましょう。」
「あ、」

一応道っぽい森の中をゆっくり目に歩いて下さる息子様の背に、できるだけ追いつこうと足を動かし意を決して声をかける
若干ひっくり返ってしまったけれど、謝るなら早く謝ってしまいたい

「申し訳ありませんでした。」
「うん、ちょっと堅苦しすぎるかな。」

え?と呆けた私は、まるで親しい人に話すような口調とまた向けられた柔らかな笑みが私に与える印象の違いに、数分の間に何があったのかと自分にききたくなった

「歳はそこまで変わらないのだし、もう少し砕けてくれて構わないよ。」
「そんな、お世話になっている息子様に」
「それ、その息子様というのはやめないか?」

え、え?と更に混乱していく私は、どうしたらいいかわからずとりあえずの笑みを浮かべ続ける

「ほら、私も口調を改めてみたのだから。」
「息子様がよろしくても、奥様がきっと嫌がります。こんな、身元不明の人間が息子様と親しげにお話するだなんて・・・」

胃が凝縮しそうなくらい痛みを伴い締め付けられる。私、痛いの嫌いなのに

「少し強引でないと手強そうだからね。」
「何を仰っているのか、」
「とりあえず利吉と呼ぶことからはじめようか。」
「ですが」
「私が、そう希望してるんだ。」

そんなことを言われたら思考が止まってしまう、処理できない
とりあえず呼べばいいのかな

「・・・りきち、さま、」

拙くなってしまった私にぷっと軽く笑って、息子様は敬称をつけるなら様ではなくさんが希望かなとよく分からないことを言い始めてしまう
どうしよう、奥様に後で折檻をうけることになるのでは?でも、息子様は恩人でもある。だから、言うことをきかなければ

「利吉さ、ん・・・」
「・・・」

真顔になって思い切り顔を背けた息子様に心臓が口から吐けそうなくらい萎縮した私は、咳払いを一つしてまたこちらを向いて下さるのとほぼ同時に、キャパオーバーにより足元から崩れてしまう
けれど痛みはなく、身体は息子様に支えられていた

「無理をさせすぎたね。」
「い、いえ、まだ」
「**さんの大丈夫は、母上も私も信用してないよ。」

なぜ。と思わず口にしかけてかわりに笑みを浮かべる。すみませんとただ謝って、両手を重ねた
続けてお気遣いありがとうございますと、頭を下げる

「失礼するよ。」

ひょいと何の抵抗もできずに抱き上げられた私は、背中と膝裏にある感覚と左側面に感じる体温に固まった
緊張でかちこちになった私に小さく笑い、息子様は走り出す

「ーーっ!」
「大丈夫、落としたりなんてしないよ。」

ぐんっと加速するその脚力神憑りと思いながら落ちないようにしがみつく私は、ちょっと跳ぶよと言われ喉から引きつったわかりましたを絞り出す
けれど、一気に離れた地面にもう悲鳴すらでずに
クライミング技術なんてない私には辿り着けない高めの岩の上に大した衝撃もなく着地する息子様はとてもじゃないけれど同じ人には見えず、下ろされても足が震えて立てない私は間違っていないと思うの

「元々ここにあがるには抱き上げるつもりだったが、あまり草履で歩くのに慣れていないようだからね。」
「・・・は、はい、」

崖からはみ出るように乗る岩の上で落ちる!?とこわごわ座る私は、見えるかい?と崖を覗くように誘導され小さく首を横に振ってしまう
慌てて縦にふりなおして覗けば、ずっ、と手が滑り胸を打ってしまった

「っ、」
「す、すまない、やはり危ないか・・・」

何かを諦めて私をおろしてくださろうとする息子様の腕が視界を横断し、腕をみないように視線をずらしてあ、と声を出す
止まった息子様の腕をさげるようにつかみ身を乗り出した私を、息子様後ろからだきすくめるように支えてくれた

ピチチチチと母鳥から餌を請う雛たち。その母鳥は、数日前に私がゴミの穴にいたのを気づかず上から生ゴミをかけてしまった鳥だった
背中に十円禿げのあるその鳥を助け出したはいいものの、無事に帰れたか気にしていたの。だから、すごく安心した

「次からちゃんと、穴の中を確認するからね。」
「気にしていたと母から聞いて、探したんです。」
「ありがとうごさまいます・・・」

するっと出てきたありがとうにどういたしましてと静かに返され、この人は本当に怖い人ではないのかもと思ってしまった