赤花、手足の如く



日の届かぬ地下に押し込められ、一晩経った。
勿論、この仄暗い部屋、太陽の光で時間の経過を認識した訳ではない。
昨晩私に触れながら「朝方お会いしましょう」と囁いた青年が、暗闇の中を闊歩する様で推測したのだ。
卑しい身で巡らせた思考はあながち間違いでなかったらしく。
一晩振りに姿を見せた青年は、また私に指を絡ませ、「おはよう御座います」と口にした。
これが朝の挨拶である事くらい私にも理解出来る。
優しげな青年の笑顔は、私の伸び切った手に力を与え、喜びの余りつい強く掌を閉じてしまった。
自然と、嗚咽とも唸りとも取れないくぐもった声が零れる。

狭く暗い部屋の中ではそんな小さな音もよく響くのだろう。
青年はその声に反応したらしく、石畳の冷たい床に膝を付き、私のうなだれた顔をゆっくり覗き込んだ。
暗闇の中、私の好きな赤い瞳が細められる。


「おやおや、あんまり強くしちゃいけませんよ」


長く細い指が私から離れた。
諭すような口調に、叱られたのかと肩を落とせば、青年は笑顔のまま首を左右に振った。
言葉を上手く理解出来ない私に、青年はいつも行動で意志を伝えてくれる。
それも、酷く単調な動作で。
首を振るのは否定の合図。彼の意図を誤解しようとした私に、正しい答えを示してくれたのだ。

血の通わぬ体を熱が駆け巡り、私は喜びに打ち震えた。
元よりただの雑草であったこの身。
彼の言葉だけが、私に束の間の幻想を与えてくれる。

青年は未だ何かを呟いていた。
距離を置いたせいで理解出来ないが、少なくとも私に向けられてはいないらしい。


「さて……随分とお疲れでしょう。顔色が悪い」


何と言っているのか。触れて貰わない限り、私には一片の単語も理解出来ない。
だが青年は微笑んでいる。
伝う蝋のように、溶け出す鉄のように、容易に離れぬ粘着質な悪意を以て。

私の掌で震えが生じた。
強く握り治めようかと思案するが、先程青年に強くしないよう指示されたのを思い出し、止める。

青年は腰を上げ、私の正面に立つ。伏せられた瞳に何が映っているかなど興味はない。
――彼の発する命令を見逃さぬよう。ただ、ただ、じっと待つ。


何やら不快な音が、床と同じ石造りの壁によって反響した。


この「地下牢」と呼ばれる部屋はとにかく狭い。
何を基準とすれば良いか分からないが、彼が四度足を動かせば隅から隅へ移動出来る程だ。
普段彼が暮らす部屋の半分よりもずっとずっと小さい。
それ故に、どれだけ些末な音も、冷たい壁が必要以上に跳ね返してしまう。

「うらぎり」「たたる」「なかま」

幾つか続く音に私は不快感を覚え、掌につい力を籠めてしまったが彼は何も言わない。
命令に背いたはずだが。何故だろう。
強まる力に比例して音は弱くか細くなっていった。
満足感に顔を上げれば彼もまた満足そうに頷いている。

私の勝手な行いで彼を喜ばせる事が出来た。
二重に満たされ、私はこの上なく幸せだ。


「そう暴れないで下さいよ。ああ、お可哀想に…… ねぇ、ちゃんとお話して頂ければ万事解決なんです、私(あたし)だってこんな真似したくないんですよ」


彼の声が異常なまでに甘ったるくなる。
何を言わんとしているのかよく分からないが、私には問う術も資格も意志もない。
彼の役に立つ為黙々と腕を絡め続ける。


「楽におなりなさい――さぁ」


彼が、手を二度打つ。
これもまた卑しい私へ彼が用意してくれた合図。
望まれるまま私は腕を本来あるべき姿へと戻した。

――私がこれを「腕」、と呼ぶのは、人間からすれば滑稽だろう。
私は人のように優れた脳を持たないが、自らを表す呼称くらい記憶している。


人は私の腕を、蔦と呼ぶらしい。
人は私の髪を、花弁と呼ぶらしい。

私と同じ、赤い八重の花弁と緑の蔦を持つ者は、皆「朱霧(しゅむ)」と呼ばれているのだと、記憶の最初に彼が教えてくれた。


私は腕を、蔦を、元の長さへと縮めて行く。
床一杯に広がった私の一部は、岩盤を這う蛇のようにうねりながら、石畳の上を滑り、そしてどの腕も最後は横たわる人間を掠めた。

もたげた花弁の下、その人間は動かない。
私の体――人の言う茎に凭れかかり、足はだらしなく投げ出されたまま。
一晩中棘のある腕に締め上げられていた所為か、血が体中に赤い輪を作っていた。
なのに、目や口から零れる液体は透明で。
人の体と言う物はつくづく奇っ怪だ。

青年は再び石畳の床に膝を付いた。
人間の首に出来た痕を指でゆっくりなぞると、その耳に口を近付け、



「お仲間さんに美しい身重のお嬢さんがいらっしゃいました。もしや、お知り合いで?」



彼の紡ぐ言葉に、人間はやっと反応を示した。

凭れていた背を持ち上げ彼に飛びかかろうとしたのだろう。
茎に圧しかかっていた重みが一瞬の後に消え去った。
もし私に口があり、音を紡ぐ術があったなら、離れていく人間の背に向かい声を上げたかもしれない。


剥がれる音がした。


私の記憶にある一番近い音を当てはめるとすれば、ああ、木の皮を剥がす時の物によく似ている。
あれの方はもっと低く勢いもなかったが。
塊から薄い皮を無理矢理引き離すと、植物だろうが人間だろうが似た音が出るのか。勉強になる。

ふと気が付けば、人間は私の根の上で小刻みに震えていた。
のた打ち回る気力もないのか、最早獣のような声しか発さず、背中からは赤い液体が滲み出していた。
じわりじわりと、雨雲が広がるよう、緩やかに床を濡らして行く。
私の茎に一晩凭れかかっていた、あの広い背だ。


「お嬢さんとの「話し合い」は、貴方の次に。どうぞゆっくりお休み下さい」


青年の腕が私に伸びた。
合図だ。私が最も待ち望む、彼からの命令。

花弁を彼の腕に乗せる。続いて、根を床から離し、同じ腕に巻き付けて行った。
蔦は使わない。棘が彼を傷付けるかもしれないし、何より人間の血で汚れている。

黒い着物越しに根を絡ませ終われば、青年は私の首――萼を、もう片方の手でゆるゆると撫でた。

彼に運ばれ狭い牢の外に出る。
途端、廊下に控えていた二人の人間が、彼の前で膝を折った。
私達草花と違い、人は静止したままでいる事を苦手とするはずなのに。人間達は微動だにしない。これも厚い忠誠心の証だろうか。


「失血死しないように見張ってなさい。 落ち着いた頃に、お嬢さんの髪か爪でも見せてやればいい。 後はあんた等で――問題ない、でしょう?」


人間は何も答えず、頭を深く下げただけだった。
この人間達は静かで彼に従順だ。少なくとも、牢の中に横たわる人間よりは。

跪く人間達の間をすり抜け、彼は牢より少しだけ明るい廊下を歩き始めた。
時折私の首に触れたり、垂れ下がった蔦を弄んだりしながら。


「あんな所に閉じ込めて申し訳ありませんでしたねぇ……日の光が恋しいですかい?」


彼に触れてさえいれば言葉を理解出来るし、人のように意志を行動に乗せる事も出来る。
私は否定の意味を込め、彼がいつもそうするように首を振って見せた。


――貴方の為、私は日の加護も水の恩恵も要らぬ異形と成ったのです――


赤い瞳が僅かに見開かれ、その後、先程までの妖艶な物とは似ても似つかない、照れ臭そうな笑顔を浮かべる。
萼が少し軋んだが、彼のこんな表情を見られるのなら安い物だ。


「それはそれは……有り難いですねぇ」


――有り難い?
私は、思わず首を傾げてしまった。
また萼が痛み、彼の指で真っ直ぐな姿勢に正される。

感謝すべきは私の方だ。

私達は、草や木や花と呼ばれる者は、ただ存在する事しか出来ない。
刈られようと、手折られようと、踏みにじられようと。逃げ出す事すら思い付かず、芽吹いたその場で朽ち行くしかない。

与えられた天命。
そうして黙する同士の屍を集め、その垣根を飛び越えたのは、彼の遠い遠い祖先の武勇。

彼から加護を受ければ路傍の草も意志を持ち、人のように感性を持つ事が出来る。
毒を持つ者はより強い毒を。
蔓を持つ者は更に長い蔓を。
その上私は、主君の為殉ずる喜びまで得たのだ。


彼は人ならざる妖貸でありながら、人ならざるに者に人の喜びを授ける。


「さぁ、いつもの花瓶に戻って、ゆっくり日に当たりましょうか」


私に宿る全ての意志は、花灯族の力があってこそ。

華星丸様。

貴方が望むなら、私はこれからも人の心を挫き続けましょう。




「ああ、いけない。 皮が茎に貼り付いてますよ。 さっきの人間のですね、後で取って差し上げましょう」









朱霧(しゅむ)の花

玖填国全土に自生する蔓性低木。
濃紅の八重に連なった花弁と棘のある蔦が特徴。
振動に反応する蔦は獲物を絡め取り、茎表面の窪みへと密着させる。
窪みの表面には消化液が滲み出ており、約二日で獲物は完全に養分を吸収される。
大きな物でも蔦の長さは大人の脚程。
人間の捕食は不可能だが、誤って茎の窪みの上に長時間腰掛けた場合、僅かながら皮膚が爛れる事も。

もし更に大きな朱霧の花が存在し、万が一人がその上に長時間寝そべってしまえば、背中の皮は容易に引き剥がされてしまうだろう。


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