遠き日のマイナスゼロ‐7


 ーー長く、それでいて忙しない夢を見ていたように思う。
 初めて絶望をこの目で見た日。落ちる戦闘機を同じ空で見送った日。いい思い出とは言い難い記憶の切り抜きが、夢なのか、ただの回想なのか。もう判断する気力も残っていない。
 とにかく自分は今酔い潰れてクォーツに運ばれている。今重要なのは、この最悪な気分をどうやってやり過ごすかだ。

「お前……体温下げろ……」
「マジかオメーマジか、呼び出されて運んでやってる人間に体温調節まで求めるとか正気の沙汰じゃねーべ」

 首から上を蒸しタオルに包まれているようだ。
 クォーツの体温は低いことでそこそこ有名で、確かに他の人間に運ばれるよりは心地良いが、それでもまだ足りない。

「つーか今のオメーが熱過ぎんべ。赤ん坊背負ってるみてーオレの方があちーべよ」
「……なら置いていけ……」
「馬鹿言うでねー赤ん坊放ってくヤツがいっかアホっタレ」

 ずり落ちてきた体を抱え直され、最早呻くことも出来なかった。
 車道を挟んだ向こう側で誰が大笑いしている。クォーツが何やら叫んでいるので、どうやら知り合いに囃し立てられたようだ。
 会話が途絶えると、夢の続きが追い付いて来る。

「そうだ……普通は、置いていかない……」

 彼女の夫が、それはそれは些細な諍いに巻き込まれた。そうして争いの相手が、家族を誘拐し脅迫する為、人を雇った。
 巻き込まれた自分はあまりにも不運だった。そう笑い飛ばせるだけの無神経さは、この二十年で手にしている。今こうして生きているのだし、最悪の事態は免れたのだろう。
 ーーそれでも、有り体に言えば、人として最も大事な物を失った。
 あの日より前にはもう戻れない。戻りたくもない。物事がゼロより向こうに傾くなんて、二度と。

「だから置いてかねーって」
「手はなして床に置いたら同じことだろ」
「はー? 最初来た時オメー床に転がってたけど、オレやってねーべ」
「……おなじだろ……」
「オメー目据わってんべ」

 気が付けば、クォーツは再び歩き出していた。人影も疎らになり、耳朶を叩く風の音がよく聞こえる。

「おぼえてるか」
「何だべ?」
「十年前。……おまえだれだ」
「よーしもー喋んでねーイイコだから静かにしてるべー」

 十年前も二十年前も、マイナスにならなかったから、今自分はここにいる。
 彼女はマイナスを、「この子を失うこと」と言った。
 何も持てないより、ずっとずっと辛いことだと言った。
 そんな最上の存在を預かったのに、守りきれなかった自分を。二十年前手放そうとしたか細い命が、十年前落ちて行った見知った命が、夢など見るなと嘲笑う。

「なー、ダンテ……オレ等、今なら走馬燈見れんだろうな」

 ーーそれでもまだ足りないんだ。
 もっともっと抱えなければ。
 失わない為に。捧げる物を山のように増やして、手綱を限界まで綻ばせて。今度こそ、手に入れる為、勝ち取る為ーー手放すことを、躊躇しない為。
 一つでも、多く。
 二度とマイナスを。誰にも与えない為に。






 いつまでもいつまでも、記憶の中で彼女が笑う。
 銃声を背に、震えながら、瞳を見開いて。
 
 ーーいい子だから、ダンテ。
 
 笑顔のままで、幾度も囁く。
 
 ーーだから守ってあげて、何があっても。 
 ーー例えーー
 
 漏らす息に混ぜて捨てた言葉が、一体何だったのか。
 
 ーー例え、あなたが。

 知るはずのないその先が、知ることが出来ないから。きっと生涯、この体の中で生き続けるのだろう。
 いつかゼロすら失って、マイナスに落ちる、その時まで。


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