遠き日のマイナスゼロ‐6


 ーーいい子。いい子。
 後ほんの少し自尊心が芽生えていたなら、反発したのかもしれない。いい子でいたくないと、価値は自分で決めると。
 けれども外側にしか幸せを求められない幼さは、無条件で自身を承認してくれる、耳障りのいい言葉に溺れた。
 だから自分も、歌のように口ずさんだ。いい子、いい子。泣きじゃくる赤ん坊に、涙とキスを落としながら、何度も何度も。あの優しい声こそが、自分をマイナスから引き上げてくれる最上だった。
 熱が、離れていく。
 外側から与えられる暖かさを、あんなに求めていたのに。
 脆弱な腕は簡単に手放し、泣いて追い縋れども、後悔以外の収穫は得られなかった。

「ダンテ。ダンテ、」

 失わせたくなかった。
 無より辛い喪失を、味わわせたくなんてなかった。その為の努力が自分には出来ると思っていた。
 軋む呼吸に合わせ、たくさんの声が聞こえる。
 泣き声だけがずっと間近にあって、遠くでも近くでも驚く程鮮明だった。

「何で……何でお前がこんな」

 兄まで血を流しているのかと錯覚する。よく見れば、回転灯がまき散らす光に照らされ、涙が血のように赤く染まっているだけだった。
 首から上が燃えるように熱い。
 片方の視界が欠けていて、耳の奥でずっと金属音が響いている。
 力の入らない手を握って来る兄の指。彼女より、テレーザより、ずっと大きいのに。同じくらい震えていて、熱い。
 雲が、兄の肩越しに、見慣れた青の中を流れていく。
 自分の体の何処にもない色を、覚えている気がした。ずっとずっと悲しい色だと知っている気がした。

「けーるか」

 気の抜けた声が聞こえる。
 すると、何故か喉のつかえた溶けてなくなった。

「……反応なしか? けーる……あー、あれだべ、」

 影が落ちる。ーー耳はどうした、治ったのか。無意識の内に発した言葉が、影の輪郭を震わせる。
 ーーオメー、アホッタレ、いつの話してんだ。十年経ったんだから、治るに決まってんべよ。
 ほら。差し出された手が、腫れ上がった頬に触れる。なのに不思議と痛くなかった。代わりに、氷のように冷たい指先の感触を、これでもかと皮膚が感じ取る。

「帰るべよ、ダンテ」






 そこかしこで色の付いた明かりが点滅し、酔いに溺れた網膜を痛め付ける。現状が理解出来ず、とりあえずだらりと投げ出していた腕に力を込めると、手首の下で何かが振動した。

「オメっ、ちょっ、苦しーべ、」

 それが見知った人間の喉仏だと察して、より一層力を込める。ぐお・だの、うぐ・だの、とにかく耳障りな呻きが大きくなった。
 でーじょーぶか。問われ、大丈夫だと答えた。当然だが大丈夫ではない。十年前、同じ人間に付いた滑らかな嘘を思い出す。

「珍しーべな、オメーがここまで酔うなんてよ」

 ジャックファルが絡んで来たような気もするが、記憶が何もかもあやふやだ。誰がクォーツを呼んで、こうして自分を運ばせているのか、全く説明出来ない。

「ダンテー、寝たか?」
「ねてない……」

 背負われていることへの羞恥心など、胃を襲う不快感が押し流してしまう。
 ダンテは抵抗することもなくクォーツにもたれ掛かり、肩口から覗くタトゥーを観察した。が、すぐに飽きてそこらに視線を巡らせ始める。

「まだ吐きそーだし、タクシー拾う訳にも行かねーからこのまま基地まで歩くべよ」


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