遠き日のマイナスゼロ‐5


 扉が固く閉ざされ、鍵穴がぐるりと回された。チャイムの音も、階段を下りる足音も、ずっと遠くに聞こえる。
 見慣れない部屋の中。いるのは自分と小さな赤ん坊だけ。頼れる物をなくした不安感が、容赦なくダンテに襲いかかった。
 彼女のそれが伝染したかのように、体中が震え始める。何も説明なんてされていないけれど。何か、途方もなく恐ろしい物が迫っているのだと、理解してしまった。

「ーーなんのーーいません、ーー帰って下さい!」

 彼女が悲鳴を上げる。力一杯テレーザを抱き、肌着に鼻先を押し付けた。生理的な涙が滲み、轟き始めた男の怒号に、恐怖が爆発する。
 音を立てるなと言われたけれど。上着から端末を取り出し、何度も間違えながら、何とか兄の番号を探し当てた。兄は、ダンテからコールが入れば何を放り出してでもすぐに出てくれるはずだ。

『ダンテ? 兄さんだぞーどしたー』

 期待通り、呼び出し音が終わらない内に、兄の声が端末を震わせた。
 涙が一斉に溢れ出す。喉も瞼も鼻の奥も全てが熱くて、涙以外何も発することが出来ない。
 届く嗚咽に気付いたのか、兄の声が一気に冷たさを帯びる。

『どうした? 今どこにいるんだ。ビーチェさんの家だろ?』

 熱に犯された頭では、すぐにビーチェさんと彼女がイコールにならなかった。数秒置いてからやっと頷き、更に数秒経ってから滅茶苦茶な音程で「助けて」と振り絞った。

「わからない、わからないけど、おばさんが、テレーザをおねがいって、今、知らない男のひと、」
『お前はどこにいるんだ』
「テレーザと一緒に、二階、おばさんだけ下に、」

 そこまで言って、端末が掌から落下した。
 何かが破裂したような音が二回。状況が、怯えが、強制的に銃声だと気付かせる。

「止めて、待って! お願いーー、」

 悲鳴すら物の数秒で途切れた。
 そんな。まさか。おばさん。震えすら鳴りを潜め、ダンテは部屋の一番奥まで後ずさった。テレーザが腕の中で身を捩る。足の力が抜け、壁に背を預けたままその場で尻餅を付いた。
 大きな足音が、何人分も、一気に二階へ駆け上って来る。守ってと請われたはずのテレーザを、縋るように抱き締めた。抱えて、胸に押し付けて、曲げた背で小さな身を覆う。

「ここか!?」
「鍵閉まってんだ、ここしかねぇだろ。これでブッ壊してーー」
「馬鹿か銃使ってガキに当たったらどうする、生きて連れてかねぇと金貰えねぇだろ!」
「車から斧持って来い!」

 夢だ。夢だ。夢だ。何度も言い聞かせるのに何も変わらない。ただただ、涙の作る染みが広がって行く。
 優しい声が聞こえない。聞こえるのは、悪意を持った見知らぬ怒声だけ。鍵があるとは言え、扉は普通の造りだから、斧があれば簡単に破られてしまうだろう。

「まさか外に逃がしてねぇだろうな」
「自分の足で歩ける年じゃねぇって言ってたろうが、あの女が隠したに決まってる!」

 銃を持っていて、簡単に撃つような男達が、テレーザを探している。夢のような現実が眼前に迫っていた。
 ーーさっきまでの平穏は何処へ行ってしまったのだろう。守ってなんて、どうすればいい。助けてと嘆くする以外、ダンテに何が出来ると言うのだろう。
 こんなに無力な存在を、自分しか守れないと言うのに。この子を失うことが、彼女にとって、何よりも辛いと知っているのに。

「さっさとしろ時間がねぇんだよ!」

 一際大きく、誰かが叫ぶ。
 そんなに焦っているのか。どうして。瞬きする間だけ疑問が浮かんで、次の一瞬には、今まで覚えたことのない寒気が全身を満たした。

「ガキ見つけたらすぐ戻るぞ!」

 自分の足で歩ける年じゃないと、言った。
 あの女が隠したに決まってる。見つけたら、すぐ戻ると、言った。

「……止めて……」

 哀願は自分に向いていた。止めて。考えないで。いつだってノロマで鈍臭いと罵られて来たのに、どうしてこんな時だけ、上手く情報を繋ぎ合わせてしまうのだろう。
 彼等はダンテがいることに気付いていない。
 テレーザだけ見つけたらすぐにここから出て行く。
 この部屋は普通の部屋だけれど。ダンテが身を隠せるだけの物陰も、クローゼットも、存在している。

「おばさん……テレーザ……」

 息が出来ない。背中の上で、胸の中で、眼球の奥で、熱を帯びた冷たさがのたうち回っている。
 折れそうな人を、小さな命を。支えてあげられると思った。頼りにされて、応えられると思っていた。何と言う思い上がりだろう。今の自分は、何かを手に入れる所か、今ある物を守ることすら出来ない。
 無力感と失望が体を焼く。
 いっそ、声を上げて泣き叫んでしまおうか。そうして存在を示して、逃げられない状況に追い込んでしまおうか。そうすればきっと、ずっとずっと強い自分でいられる。

「ひっ、ぐ……」

 なのに声は出ないまま、音を出すなと言う言いつけだけを従順に守り。
 腕が動いた。痺れが全身に広がって、息も絶え絶えの肺に酸素が送り込まれる。
 扉に叩きつけられる衝撃を背に。彼女がそうしたように、ダンテは優しくテレーザに口付けた。


[ 18/20 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -