遠き日のマイナスゼロ‐4
駆ける内、空が青さを取り戻していた。
快晴とは言い難いが、薄い色の空が、風に舞う薄雲の向こうで煌めいている。自身の行動が歓迎されているようで、ダンテは息と共に胸を弾ませた。
彼女はいつも、子供の成長は驚く程早いと感動している。この一週間で、テレーザはまた重みを増しているのだろうか。期待が胸を打ち鳴らす。木々が作る緑の影を、普段よりずっと早く潜って、見慣れた赤褐色の屋根に辿り着いた。
「おばさん」
まだ姿は確認出来ていないのに、気が付けば声が漏れた。
雲は散り始めたが、風はまだ強い。彼方から荒削りな波音が続いている。
チャイムを鳴らせば、すぐ扉が開いた。予想通りの、見慣れた、笑顔。
ーー久し振りねダンテ。お父様はもう許してくれたの?
いたずらっぽく片目を閉じながら彼女は言う。気恥ずかしさと歓喜が同時に芽吹き、自然と頬が緩んだ。
兄が後から来る、父にはちゃんと話す。子供の支離滅裂な説明に頷きつつ、彼女はダンテを室内に招き入れ、ベビーベッドで熟睡するテレーザの元まで誘った。
「テレーザ! イイコにしてた?」
心なしか一週間前よりふっくらした頬を、人差し指の背でそうっと撫でる。もたつく口元が愛おしくて仕方がない。もし起きていたのなら、すぐに抱き上げて、思う存分頬ずりしていただろう。
「ダンテ、おばさん約束するわ。今まで一度もそんなことなかったけれど……もし忙しかったり、疲れてて、お話しするのが大変な時はちゃんと言うから。だからいつでも会いに来てくれていいのよ」
何故ダンテが一週間姿を見せなかったのか。とっくの昔に、理解されていたようだ。うん、うんと何度も頭を縦に振り、素直に彼女の言葉を信じる。
後から兄に何と言って自慢しようか。頭の片隅でそんなことを考えつつ、この一週間何があったのか口早に語った。今日はクラスメイトに小突かれなかった。興奮気味に伝えれば、彼女は一際嬉しそうに顔を綻ばせる。
「あら……ちょっと待ってね」
ふと窓の外に視線をやって、彼女は立ち上がった。同時に、車のエンジン音が響く。まさか兄が、父に告げ口をして一緒にやって来たのだろうか。頭を駆け巡った最悪の事態に、ダンテは身を強ばらせた。
「ーーダンテ」
名を呼ばれながら、手を引かれた。彼女は一瞬の内にテレーザを抱き上げ、空いた手でダンテの腕を掴む。痛いくらい強く握られて、ダンテは思わず抗議の声を上げた。
「痛い!」
だのに、彼女はこちらを見てくれない。頭のずっと上の方で、氷水に浸かっているのかと思うくらい、青くなった唇を噛み締めている。
ダンテの小さな心臓は一気に収縮した。見たことのない瞳が、獣のような鋭さで正面を凝視している。おばさん、と呼ぶことも出来ないまま、引きずられるように裏口まで移動した。
「ーーあ、あ……そんな……」
まだ七年しかこの世界を生きていない。
でも、この声こそが、絶望なのだと確信する。
彼女は裏口の小窓に顔を近付け、電流でも流れたかのようにすぐ様飛び退いた。そうして辺りを見回すと、両腕をぶるぶる震わせながら、今度は階段を上り始める。
肩が取れてしまいそうなくらい痛いけれど、逆らうことは出来なかった。おかしい。おかしい。幼心があらん限りの声量で警告して来る。
二階に上がり、一番奥の部屋へ押し込められた。同時にチャイムが響く。何でもない音に、彼女の肩は驚く程大きく跳ねた。
小刻みに震える唇で、テレーザの額に口付けを落とす。ダンテはただ、見上げることしか出来なかった。
「ダンテ、これから何があっても音を出しちゃダメよ。ね。テレーザが起きても、泣き出さないようにいい子って言って撫でてあげて。お願い。大丈夫だから、ね、お願い、ダンテ」
テレーザをダンテの腕に預け、彼女は譫言のように懇願を繰り返す。
空いた両手に肩を掴まれた。今までにないくらい瞳を見開いて、彼女は荒い呼吸で酸素を取り込んでいる。
「いい子だから、ダンテ。テレーザのこと守ってあげて。お願い。この子一人でなんにも出来ないの。だから守ってあげて、何があっても、例えーー」
数度音のない息を漏らし、彼女は押し黙った。階下では何度もチャイムが鳴らされている。とうとう、扉まで叩かれ始めた。
「いい子だから。お願い」
これは何なのだろう。何が起こっていて、何を求められているのだろう。
頭が思考ごと痺れて動かない。血走った瞳に向かって頷けば、彼女は唇を引き結んだ後立ち上がり、部屋から出て行った。
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