遠き日のマイナスゼロ‐2
彼女が街の少し外れに引っ越して来たのは、一年程前。
頭の良さそうな夫と一緒にダンテの家を訪ねて来た、それが最初。細くて笑う時も小さい口で。何だか倒れてしまいそうだと思ったのを覚えている。
ーーまだ分かりにくいけれど、お腹に赤ちゃんがいるの、だから大変なのよ。
そう説明してくれた母は、今ダンテの弟か妹をお腹に抱えている。高齢出産に加え初めての双子。念には念をと言って、今は実家で静養中だ。
妹か弟が、二人いっぺんに出来る。ダンテは散々はしゃいだが、同時に不安にも襲われた。ちゃんと「お兄ちゃん」になれるだろうか。乳幼児を抱えた彼女に何気なく零せば、「ならこの子を妹だと思ってちょうだい」と微笑まれて。
「赤ちゃんをあまり知らないから怖いのよ。何度も抱っこして、話しかけてあげたら、きっとお兄ちゃんになれるって自信が湧くわ」
彼女の夫は、あまり帰って来られない仕事をしているらしい。だから、余計だった。小さな赤ん坊を抱えた折れそうに儚い人。自分が助けてあげなければ、慰められた身でそんな自尊心が顔を覗かせる。
そうして彼女の家に通うのが日課となり、いつしかそれが日々の楽しみにせり上がって来た。父から差し入れを持たされたり、時々兄や姉と連れ立ったりして。でも、兄や姉は赤ん坊の扱いに慣れていて何だか悔しかったから、いつしか誘わなくなった。
「テレーザ。イイコ、イイコ」
ロッキングチェアを占領し、乳飲み子にひたすらいい子いい子と繰り返す。最初は割れ物のように思えていた存在は、危うさはそのままに、日々人としての厚みを増して行った。
「もう立派なお兄ちゃんね、ねえ、写真撮っていい?」
「いいですけれど、お母さんには送らないでください」
「あら、どうして?」
「いきなり上手に抱っこしておどろかせたいんです。お父さんにも兄さん達にも、かんこうれいをしいています」
「どこで覚えたのそんな難しい言葉」
彼女の名はビーチェで、娘の名はテレーザだった。
けれど結局、彼女の名前を呼んだのは最初の一回だけだった。ビーチェさんなんて止めて、おばさんでいいわよ。そう言われて、素直に従い続けた。
「テレーザ、起きないですね」
「ええ、今お腹いっぱいミルク飲んだ所だから」
それでも、たまに起きて泣くのよ。
今日はダンテが来てくれたから安心しているのね。ありがとう、ダンテ。いい子。
頼られている自信と、助けられた満足感は、七つの子供にとってとても魅力的だった。よく父が「迷惑になっていませんか」と聞いているが、彼女はいつもそんなことありませんよと首を振って、ダンテはその隣で胸を張っている。
「いつもこの子と私だけでしょう? 男の子がいてくれると、とっても心強いわ」
「……でも、僕、……弱いですよ」
「あら、あのいじめっ子達と比べているの? 私からすれば、ダンテの方がよっぽど強い男の子よ。ちゃんと言い返すのに絶対手は出さないんだもの。芯が通ってて、カッコいいわ」
ああ、まただ。
こうして一人前に扱ってくれるから、いつも馬鹿正直に嬉しくなってしまう。
テレーザ。名を呼んで、額に額を合わせる。ふくよかな頬が持ち上がり、震えた。こんなに柔らかくて小さくて、温かい兄弟が、もっと増える。そう遠くない未来に待ち受ける祝福を、テレーザを通して予感していた。
「そうだ、おばさん。さっきのマイナスのお話ですけど」
「何かしら?」
「ずっとずっとつらいことがあるって、言ってたけれど、それって僕もなるんですか?」
抽象的な話に対する抽象的な質問にも、彼女は真剣に向き合ってくれる。また顔をしかめ、ううんと唸り、髪を触り。さっきよりずっと長く悩んで、ダンテの正面にしゃがみ込んだ。
「これからのことは分からないわ。誰にも。でもダンテ、あなたはそんな全てをなくすことなんてないわよ。大丈夫」
頬に、頼りなく細い指が触れる。
分からないと言っておきながらダンテの未来を断言する。それは矛盾を孕む祈りのようで、容易に反論出来ない圧力を発していた。
「ゼロのまま生きる人なんていないもの。ダンテには家族も友達も、私も、テレーザもいるでしょう? だから大丈夫よ。マイナスになんてならないわ」
周りに林と畑ばかり広がる家の中で、風の音だけが聞こえる。大丈夫。根拠のない保証だと言うのに、胸中は優しい温度で満たされて行った。
一度しっかり頷けば、彼女はダンテの頭を思い切り撫で回す。いい子、いい子。何度も繰り返される賞賛は、赤ん坊に対する物と同じで少し気恥ずかしいけれど、嫌いになんてなる訳がない。
今週末には母を見舞う予定だ。後少しで産まれて来る。そうしたらどうしようか。テレーザと三人、みんな自分がちゃんと抱き締めてあげよう。
腕の中が、いつまで経っても温かい。
未熟で無知な脳が、哲学的な思考を帯びる。
ーーああ、幸福とは、こう言うことか。
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