遠き日のマイナスゼロ‐1


 マイナスって何?
 聞けば、穏やかだった顔立ちが微かに歪む。ううん、と一度唸って、絹のように細い髪を肩へ流して。
 ゼロよりもっと少ない物のことよ。絞り出したであろう結論に、幼さは納得しなかった。ゼロって一番小さい数でしょう、と、屁理屈をこねる。今になって考えれば、まだ足し算引き算もろくに理解していない子供に、マイナスの概念を説明しろとは随分酷な話だった。

「数字の話は、大きくなったらきっと理解できるわ。あのね、ゼロよりももっと、もっとなくなることがあるのよ。もーっと小さくなることがあるの」

 それはどんなこと。
 質問ばかり繰り返す子供に、彼女は呆れもせずまた答えた。

「そうねえ、例えば、私にとってはね。この子を、失うこと」

 腕の中、子供と言われる自分よりもっと小さな体が震える。
 しっとりと湿った肌、古くなった筆で散らしたような頬の赤、割れた貝殻より小さな掌。髪に鼻先を寄せれば、不思議な香りがした。甘いのに、どこか胸に迫る切ない香り。これが母から与えられる命の証だと、この頃はまだ知らずにいた。

「何も持てないより、ずっとずっと辛いことがあるのよ」

 小さな指が空を切る。マイナスのことは今一理解出来なかったけれど、この子がいなくなるのは、間違いなく辛いと思った。
 滑らかに上下する胸の厚みに、鼻の奥がツンと痛む。イイコ、イイコ。恐る恐る額を撫で囁けば、命の香りが、噎せ返る程強くなった。






 どこに行っても海が追って来る。風の音と波の音は対で、いつでもダンテの小さな背を押した。
 白い壁に溢れた街は、鮮烈な美しさでもって人々を出迎える。朧気な輪郭など存在しないコントラストが、そこかしこの街角で真っ正面から押し寄せた。

「ダンテ。ダンテ! むししてんじゃねぇよ、バーカ!」
「……僕のこと?」
「はぁ!? あっ、あたり前だろ! こいつホントのバカだぞ、自分の名前もわすれてやんの!」

 蔦に咲いた赤い花と白い花の下で、クラスメイトが腹を抱え笑っていた。さて、どうしようか。さっき背中を蹴られた時点で終わったのではなかったか、と、ダンテは不思議に思った。彼等は人に自分の力を見せつければ、満足するのではなかったか。
 疑問符が脳内を滑空する中、ふと隣の色彩に気付く。朝萎んでいたはずの花弁が見事に開き、日の光を浴びた紫が、まるで自慢するように風を受けていた。

「ーーおまえっ、いいかげんにしろよっ! ボーッとしやがって!」

 今度は眼前の色彩に気付き、途端思い切り突き飛ばされた。背の高いクラスメイトに力では到底敵わない。花に当たらないよう身を捩ったせいで、受け身が取れず肩から石畳に倒れ込んだ。

「いっつも兄ちゃんに助けてもらって、なっさけねーの」

 衝撃で落下した鞄を抱え、飛び散った中身をかき集めている最中、そんな言葉が投げかけられた。
 助けを求めたつもりはない。ただ兄が、こう言った現場を目撃すると、自慢の脚力で突進して来るだけだ。たまに勢い余って転んでいるが、あの迫力で大抵の同級生は逃げ出してしまう。
 自身の危険も顧みない兄を、ダンテは尊敬している。決して暴力を振るわずに追い払うし、仕返しよりダンテの安全を優先してくれる。たまに行き過ぎた愛情を感じるが恐らくは常識の範囲内だ。

「なっさけねーのは、兄ちゃんがいないときを狙ってる人」

 背後で怒声が爆発し、振り返ることもなく駆け出した。
 いつからこうなったのか、よく覚えていない。小さい体のせいか、鈍臭い運動神経のせいか、殴り返さない性格のせいか。とにかく、気が付けば決まった人間から小突かれていた。

「おいクソガキども! 道路に飛び出すんじゃねぇ!!」

 角を曲がった所で、しわがれた声と悲鳴が共鳴した。誰が叱ったのか分からないが、とにかくこれで時間が稼げそうだ。
 苦しくて吐き出した息が、日に焼かれる。ようやっと余裕が出来て体を確認すれば、肘と頬が擦り剥けていた。ああ、どうしよう。こんな姿を見れば、兄がきっと声を上げて泣いてしまう。
 無意識の内に坂を駆け上がり、緑色の影を浴びながらひた走った。迷惑かな。でも、兄の為だから。そんな言い訳を何度も繰り返し、ダンテは心臓を限界まで酷使し目的地に辿り着いた。

「ーーいらっしゃい、ダンテ」

 息つく間もなくかけられた歓迎の言葉、枯れた声の代わりに、流れ落ちる汗が答えた。


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