愛してる。-1


 愛してる。愛してる。他でもない、この私が。未来永劫、私が愛している。





 声と陶器が、同時に罅割れた。彼女の金切り声を聞くのは始めてだ。怒鳴り声は、車を取り囲む抗議者へたまに発していたけれど。
 目的のある怒声と、無計画に生まれる悲鳴は完全に別物だった。獣のように叫び、通路の両脇に飾られた花瓶を、土台へ縋り付くようにしながら落として行く。一つ一つ割れていくのは、彼女の矜持か思い出か。罅割れ、粉々になり、無機質な床の上へ四散する。

「許さない! 自由に、なるなんて! あなたはこのまま飼い殺しにされるんだ、世界中の嫌悪に晒されて、そこで、そこで死ななければ許さない!」

 黒く細長い花瓶が足元へ叩き付けられ、欠片が頬を掠める。微動だにしない態度がまた何かを砕いたのだろう。彼女は乱れた髪の隙間から血走った目を覗かせ、一瞬の空白の後頭皮に爪を立てた。

「どうして、どうしてーー昔はあんなに、怯えていたのに……!」

 ああ、そう言われれば、と思い返す。
 今でも世間一般的には子どもだが、もっと幼く無知だった頃。確かに自分は、人の感情に素晴らしい意義があると信じていた。





 平和の使者だと宣う者達に幾度も囲まれた。傷が付かない程度に小突かれ、髪を力任せに引かれ、噛み付くのかと思うくらい近距離で叫ばれた。
 ーーその服も、今朝食べた物も、与えられる教育も。お前の命でさえ、全て罪無き人々の血で作られたんだ。
 その場は逃げ惑うのに必死で、意味など理解出来ない。それでもボディガード達に保護され、安全な場所に匿われると、穿たれた敵意はずぶずぶと音を立てて沈み始める。
 自分は父に育てられた。その父は殺戮の道具で富を築いた。その富で育まれた自分は、やはり殺戮の加護を受けているのだ。陳腐な悲壮感に辿り着くのは、極自然な過程だったのだろう。逃げても逃げても批判は追って来る。世話役や使用人は慰めてくれたが、事実を否定することはなく、生温い気遣いが余計に痛かった。

 とうとう悪意は平和の使者達から子どもへ感染する。よく内容を理解しないまま、同級生達が少しずつ離れ始めた。何処かの地域で小競り合いが起こると、すぐ糾弾された。
 お前の父親が武器を作るからこうなるんだ。
 軍にいくら渡したんだ。
 人が死なないと金を稼げない癖に。
 誰から吹き込まれたのか。典型的な抗議文を、幼い子ども達が口にする。親に叱られる下品な言葉を人前で叫ぶのと、同じ程度の好奇心だったのだろう。

「また泣かされたのかい。図々しさは、僕に似なかったようだね」

 ある日とうとうベッドの中に籠城すれば、珍しく父親が声を掛けて来た。毛布越しに頭を撫でるでもなく、隣に腰掛けるでもなく、部屋に一歩踏み入ったその場で父親は笑う。

「誰かに委ねるから駄目なんだよ。お前を傷付けた言葉に、お前以上の価値はあったのかい?」

 本当に、それだけ言ってまた武器を作りに戻ってしまった。銃弾を、爆弾を、戦闘機を、それこそ山のように。
 それでも扉が閉まる頃には、不思議と涙は止まっていた。
 思考が渦を巻く。泣き過ぎた時に感じる吐き気は、湧き上がる高揚感に押し潰されていた。
 価値なんて考えたこともない。ぶつけられる尖った意識に、ただただ身を縮め耐えるだけだった。でも、それは何故だろう。押し寄せて来る情報の重みに、考えることを放棄していた。
 彼等の何に価値を感じた?
 決して痕が残らないように傷付けて来る大人達を。いつでも逃げられるように遠くから罵倒して来る子ども達を。何の為に、守っていたのだろう。

「坊っちゃん? 旦那様がいらっしゃったようですが……」

 不安げに声を掛けて来る使用人。例えば彼が自分を憎んだとして。その意思が、この身の価値を凌駕する理由は。
 気付けば顔が上がっていた。頬の引き攣る感覚で、笑っているのだと自覚する。
 明らかに怯えている使用人を無視し学校へと向かえば、腫らした瞼が目に付いたのかすぐ見慣れた顔に囲まれた。
 最早一言一句暗記してしまった罵詈雑言。紡ぐ彼等と、その背後でほくそ笑む誰かの思惑が、はっきりと充血した目に映った。
 この光景を見ているのは誰だ。聞くのは、感じるのは。自分以外に誰がいる。

 ーー誰かに委ねるから駄目なんだよ。

 父親の言葉が世界を色付かせる。ああ、そうだ。自分がいる。外側から何を言われようが、内側で信じてくれる唯一が、存在している。
 他人の言葉に傷付いて立て籠ってまで守りたかった自分を、愛せるなら。裏切らない、いなくならない、この身に愛して貰えたのなら。

「……大丈夫だ」
「はぁ? お前、人殺しの子どものくせに、」
「大丈夫だ、平気。もう、お前等に何も求めなくて済む。ーーもういいよ、大丈夫! ありがとう!」

 こいつ、おかしくなった。誰かが呟けば周りも増長されて、とうとう直接手を出されたけれど、不思議と何処も痛くなかった。
 この時、確信する。
 自分は何処までも生きていけるのだと。





「旦那様だって、貴方が軍に入るのを止めもしなかった! 私だって、ずっとずっと貴方が憎かったんですよ! 坊っちゃん!」

 あの時止まった涙に嘘はなかった。
 物心付いた頃からずっと一緒だったボディーガード。父のように勇ましくこの身を庇い、母のように優しくこの身を抱き締めてくれた。
 抗議者に取り囲まれても、同級生に絡まれても。真っ先に駆け付けてくれたのはこの人だった。例え、物陰から、自分が泣き出すのを待っていたのだとしても。

「俺はずっとずっとお前を愛しているよ」

 どうしてそんな顔をするの。問うことはなかった。理由なんて、もう全て手にしていたから。

「あな、貴方は、ずっと、これからも、」

 憎まれるべきなのよ。子どものようにしゃくり上げながら、彼女は呪詛を吐き続ける。
 この身は何処まで行ってもドレーの物で、逃れられないはずだった。それなのに、特異細胞なんてお伽噺のような存在が、勝手に繋がりを断ち切って行く。
 軍から入隊を打診されて、父親は至極滑らかに頷いた。名前を変え、ドレー社の後取りであった事実は消去されると軍部に提案されても、それはいい案だと微笑んだ。お前もそう思うだろう、見上げて来た瞳は何処か満足そうに揺らめいて。この人も、自分を愛していられるのだと思った。

「どこへ逃げたってーーあなたに流れる呪われた血は、絶対に、許されない。憎まれながら、生きるしかない」

 知っているよ。貴女がわざと警備に穴を開けたから、すり抜けた奴等に嫌と言う程叩き込まれてる。


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