新緑、血潮の如く


 水流に足を取られ、その場に崩れ落ちた。顔の左半分が水に浸かり何とも呼吸しにくい。
 右目から高々と突き出た矢は風が吹く度ぐんとしなり、言い様のない鈍痛を脳髄へと押し付けてくる。
 駄目だ。このままでは。このままでは、死んでしまう。
 血に濡れたこんな体じゃあっと言う間に野犬の餌だ。
 別に、生きながら臓腑を喰い破られる事が、目玉をくり貫かれる事が、恐ろしいのではない。
 己が主の盾にもなれず名もなき川に沈むのが恐ろしいのだ。守る戦いも出来ぬまま、ただ無惨に朽ちるのが恐ろしいのだ。

 何とか水面から顔を上げ、それでも立ち上がる力は既になく、転がるように川の中洲へと身を横たえた。
 少し力を入れただけで腹の傷から血が溢れ出す。矢が押し潰した右目に最早痛みはない。
 抜けるような青空を見上げながら、怒りと後悔に唇を噛み締める。何と無力な事か。今の自分は兵ですらない。翳すべき刀は折れた。声一つ出す力も残っていない。

 こうしてる間にも足音が聞こえて来た。河原の砂利を踏み締める音。人の足音。追っ手か、野盗か、死体漁りか。
 潰れた右目では何も見えぬ。焼かれた喉では何も問えぬ。
 何もない中、ただ一つ、抗う意志はあった。右手に握る愛刀は既に刀身の半分を失っていたが、それでも構わない。
 ろくに力の入らない右腕を、小刻みに揺らしながら必死に持ち上げる。

 せめて刀を握ったまま果ててやる。
 決意も新たに、血でしとどに濡れた左瞼を何とか持ち上げる。
 足音が頭のすぐ上で止まる。視界を埋めていた青空。その抜けるような青を覆い隠したのは、目映い金色だった。

「なぁ、お前、その目ぇに付いとる矢はお洒落のつもりか?」





 朱塗りの門には、龍が雲海を這うた後の様な、ぐるりとうねる波模様が刻まれていた。波模様の溝には細かい真緑が散る。

 この真緑は森の奥深く、数多存在する小川の中でも一際清冽な源流付近にしか自生しない『翠掠石』を細かく砕いた物。
 森の番人である妖貸(アヤカシ)・狐狼(コロ)族しか知り得ぬ源流より作り出されたその粉は、非常に価値が高い。
 人間相手なら、山のような食料と交換してもまだ釣りが来るだろう。掌で一掬いした程度の量で充分だ。
 門が守る屋敷の持ち主は、そのように贅沢な装飾必要ないと断った。丁重に、断ったはずなのだが。職人達が「長の為なら」と知らぬ内に気合いを入れ、『翠掠石』以外にも様々な贅沢品が散りばめられてしまった。
 せめて屋敷の中は質素にしてくれと頼み込んだのは何時の事か。遠い昔を懐かしみつつ、屋敷の主人は門を潜った。

 屋敷全体を取り囲む無数の大木からは、鳥の囀りが忙しなく聞こえて来る。
 つい先刻まで見知らぬ訪問者を警戒し黙り込んでいたと言うのに。動物の適応力と言うのは、その身に狼と狐の血を宿す妖貸から見ても舌を巻く物だ。
 屋敷の主人――淡紅藤の髪を持つ青年は、外套の裾を翻しながら石畳が導く玄関先へと歩を進める。
初夏へと向かう新緑の季節。
 石畳の両脇に植えられた殊麻(コトオ)や躑躅(ツツジ)が、紅紫色と蜂蜜色の美しい花を咲かせ、新緑が埋め尽くす庭に慎ましやかな彩りを添えていた。
 細い木枠を格子状に組み合わせた玄関の扉は、昨日、いや今日の朝方までは滑らかに動いてくれていたのだ。
 なのに、今の状況は何だろう。
 戸の外側を囲む一際頑丈な木枠は無惨にもぐにゃりとひしゃげている。先程潜った門に刻まれていた、あの波模様を彷彿とさせるうねり具合だ。
 意気揚々とこの戸を組み立ててくれた顔見知りの棟梁は、今頃黄泉の国で作品の悲惨な現状を嘆いているか。

 屋敷の主人は長く逞しい足をゆっくり後ろへと引き、そのまま凄まじい勢いで扉へと叩き付けた。
木枠から歪な音が漏れる。
 もう一度足の甲を木枠に打ち込めば、見事、扉はすんなりと左右へその身を滑らせるようになった。
だが足元に目をやれば、下側の木枠が溝から完全に外れてしまっている。
 最早これは扉と言うより立て掛けられた『ただの板』だろう。屋敷の主人はただの板と化した元・扉を悲しげに見詰めた。

「豹烈火(ヒョウレッカ)! 豹烈火! 何じゃあ今の音!」

 鳥の囀りが一斉に止む。
 足の短い犬が駆けるような、小刻みで軽い足音が、屋敷の奥から段々と近寄って来た。
 足音と同時に響くは鈴を転がしたかのような愛くるしい声色。だが、その声量たるやとんでもない。
屋敷へ転がり込んだ異形にすら慣れ囀っていた鳥達を、一羽残らず沈黙させる程の盛大な喚き声。
 屋敷の主人――豹烈火は、その鋭い金の瞳を元凶へと向けた。
 眼前には、背伸びしても彼の胸程までしかない小柄な少女。
 その体長に迫る程大きな尾は、金色の豊かな毛並みを湛えたままゆらゆら揺れている。
 さすが齢十三にして狐狼族一と謳われる俊足。広い屋敷の端から端まで、豹烈火が溜め息一つを落とす内に駆け付けてしまった。

「……錦(ニシキ)」
「お?」
「今朝方戸を頭で突き破ったのは何処の何奴じゃ」
「わしじゃ!」
「分かっとるなら反省せんか馬鹿たれっ!」
「痛いっ!!」

 轟音を立て扉を開ける羽目になったのは一体誰のせいか。
 無惨に板へと成り果てた扉を真横に置きながら、他人事のように事の顛末を窺ってくる少女――錦に、豹烈火は思わず拳骨を喰らわせた。
 里一と評されるその拳骨。あまりの衝撃に、錦は思わず眩い金色の髪を掻き毟る。

「じゃって、両手塞がっとったから!」
「たわけ……何の為に大きな声を出せると思うておる。手が使えぬなら儂を呼べば良かろう」
「いやー男背負って山登ったせいか、喉渇いとったんじゃ。じゃから大声も出んでのう」
「…… もう、良い……して、その男はどうしとる」

 何やら喚く錦を置き去りにしたまま、土間から床へ上がった。足袋越しではあるが木材から冷気が伝わる。初夏と言えど、木々が織り成す陰に守られた豹烈火の屋敷は、凛とした涼しさに包まれている。
 錦は大きな尾を揺らしながら小走りで豹烈火の後を追った。

「相変わらず寝とる」

 大方想像出来ていた内容だった。それでも豹烈火は肩を落としてしまう。

「そうか……」
「さっき医者来たんじゃけど、何言うとるか分からんかった! 豹烈火に言わないかん事書いてくれてるから見てくれ!」
「分かった、分かったから声を落とさんか鳥が逃げとる」

 屋敷を縦断する大廊下。
 その突き当たりに、豹烈火の背丈より遥かに巨大な襖があった。本来手を添え開け放つ襖に豹烈火は、その薄い唇を近付け、ふう・と一息吐き出す。
途端、襖が滑り出す。荒々しくも、弱々しくもない、緩やかな速度で。
 そうして豹烈火と錦が部屋に立ち入れば、また独りでに動き出し音もなく閉じられた。人が見れば如何なる妖術かと驚嘆する光景も、狐狼の一族からすれば日常。
 二人はさして気に留める様子もなく部屋の中央まで歩み入った。

「……傷は、塞がり始めたか」

 部屋には、一組の布団と、そこに横たわる青年と、僅かながらの医療用具しか存在していなかった。
 床の間に飾られた掛け軸や壷も今はしまわれ、三十畳以上ある部屋の広さが余計に際立っている。

「すぐ治る思うたのに……」

 錦は布団の脇に腰を下ろすと、青年の頭に手を乗せた。
 普段の――例えば、両手が塞がっているからと頭で扉を突き破るような――彼女からは想像も出来ない優しい手付きで。

「まだお主の力が馴染んどらんからじゃ。案ずるな、じき治る」

 口でそう言った物の、豹烈火の声色は低く、神妙な面持ちのまま布団に横たわる青年を見詰めた。
 顔や体の汚れは医者が拭き取ったようだが、茶褐色の長い髪には未だ煤がこびり付いたまま。体中を包む包帯には煤でなく赤黒い血が滲んでいる。

 錦がこの青年を背負い、文字通り頭から屋敷へ飛び込んで来たのは今朝方の話。
 その時既に青年の意識はなく、体は血塗れ、右目には矢が突き刺さっているような有り様。
 まさか錦が人間を拾って来ると思っていなかった豹烈火も、その痛々しい姿を見れば二つ返事で招き入れるしかなかった。

 確かにその時、豹烈火は青年をただの人間だと思っていた。
 野盗か何かに襲われ命からがら逃げ出しただけの『人間』だと。だがその予測は、願望は、青年を背に負うたままの錦が見事打ち砕いてくれた。

 ――豹烈火、わし、この人間 妖枷(アヤカセ)にしたんじゃ!じゃから狐狼の里出てく!

 数百年以上の時を生きて来た豹烈火ですら、生まれ育った里との離別を、ああもあっけらかんと宣言されたのは初めてだった。


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