実る過去と枯れる未来‐2


「軍に入る気はありませんカ。エノウ・アトラーくん」

 イルクシュリは、己に宛がわれた客室へエノウを通すなり、いきなり本題を切り出した。聞き間違いでなければ、あまりに突拍子もない発言だ。ソファに腰を沈めようとしていたエノウは、目測を誤り肘掛けに尻をぶつけてしまった。
 呻き声を堪え、倒れ込むように、今度こそ革張りの座面へ身を置く。イルクシュリは我関せずと言った様子で、備え付けのカップに紅茶を注いでいた。

「い、今……何を」
「国は常に優秀な兵を欲していまス。特にここ数年は、対黒獣戦で使い物になる人材がネ。エノウくんは黒獣相手に怯まず攻撃したって聞いて、なかなか出来ることじゃないネ、見込みありだヨー」

 勝手にやったじゃ済ませられない大人の事情ーーとはこれのことか。不用意に手を貸した、己の浅はかさに唇を噛む。
 何とかして断らなければ。軍は駄目だ。軍、だけはーー

「攻撃はしましたが、全く太刀打ち出来ませんでした。こんな実力でお役に立てるとは到底思えませんが」
「実力は付ければいいだけだヨ。重要なのは、黒獣を見て戦意喪失しなかったコト。どれだけ人間相手に武勇を誇る軍人でも、心折られちゃったら使い物にならないネ」
「ですが自分のように素性の知れない者を、容易にーー」
「エノウ・アトラーくん。年齢は十七歳か十八歳、本人は十八歳で通してる。当時のクジェス王国南西部アトエーヌ地方の貧民街育ち」

 包帯に抱かれた指が震える。当初の目的通り喉を潤そうとしたが、このままではカップの底と受け皿の合唱を聞く羽目になるだけだ。
 さ迷う指先を拳で隠し、前髪の隙間からイルクシュリを覗き見た。彼が目の前で漁っているのは、日光を上品に弾く革の鞄だ。

「エノウは古代語、アトラーはそのままアトエーヌ地方から取った物。本名は不明。身寄りは持たず貧民街で幼少期を過ごし、生活の為傭兵紛いの仕事も受け、弓矢や剣の扱いはそこで覚えた。ティエダとドルツケープの私兵に加わった記録も残っている。芸術家と買手の仲介で生計を立て始めたのは十代半ばーーコリンス夫人との付き合いは、まぁ関係なさそうだしいいよネ?」

 放たれた報告書が、丁寧に磨かれた机を滑り、エノウの膝で止まる。自然と瞳に飛び込んで来た単語も、それが集まった文章の内容も、全て身に覚えのある物ばかりだ。

「いやー、画家志望だって言うのに工房に弟子入りもしてないって言うから、何かと思ったラ。貧民街出の孤児だから門前払いされてたんだネ?」

 弾かれたように、机上の加子を掻き集めた。誰がどうやって調べたのか、考えたくもないが、身分を持たない孤児の調査は難しいだろうに。よくここまでやった物だと賛辞を送りたくなる。

「と、まぁこの通りネ! 素性はちゃーんと調べた上でお誘いしてるのでご心配なク!」

 握り締めた書類に、過去の所業が綴られていた。そこを口にせず“幼少期を過ごし”とまとめたのは、イルクシュリなりの気遣いか。それとも、口に出すのも汚らわしいと軽蔑されたか。
 普通の人間ならどう対応するだろう。逃れようのない過去を誤魔化すか、暴いた張本人を責め立てるか。
 ーー馬鹿馬鹿しい。

「それは……安心しました」

 自分は違う。今更この程度が何だ。おぞましい汚物のように扱われて何が悪い。事実を述べられて何処が痛む。
 焦るな。イルクシュリは確かに得体の知れない相手だが、十八年間舐め続けて来た苦汁はこの身の中で積み重なり、毒をも打ち負かす抗体となっているだろう。
 紙に刻まれた皺を引き伸ばし、丁寧に整えてから突き返す。イルクシュリは素直に受け取ると、エノウに視線を向けたまま、迷うことなく紙の束を引き裂いた。

「では、ご理解頂けますね? みっともないことに、自分はまだ画家を諦めてないんです」

 不気味なまでに頭の良いこの男なら、エノウの目的に勘付いているだろう。
 足掻いて認められるかは実力と運の問題だ。報われないかもしれない。それでも、他の者達と同じ、可能性の門を潜る資格だけは手に入れてからーー諦めたい。

「入隊せよとの正式なご命令であれば、謹んでお受けします。ですが意思を問われているのであれば、自分の答えはただ一つ。お断り致します」

 限界まで頭を下げ、なじられる覚悟と共に顔を上げた時、イルクシュリは呑気に紅茶を啜っていた。
 真正面から肩透かしを食らったエノウに、淡い炎色の瞳が向けられる。

「そっか。残念だけれど、俺も君の絵は綺麗だと思うから、仕方ないネ。頑張っテ」

 え、は、はい。何とも情けない返答で、イルクシュリは満足したようだ。ソファに凭れかかると、エノウの返事と同じくらい気の抜けた様子でくつろぎ始める。

「……え、嘘? 鎌かけたんですか?」
「違うヨ本心だヨー人手が足りないのは事実だシ、特に君みたいな色の鮮やかな子は喉から手が出る程ーー」

 そう言って、イルクシュリは沈黙した。背凭れに後頭部を預け、視線は恐らく天井に向いているのだろう。エノウからは尖った小さな顎と、控え目な喉仏しあ確認出来ない。

「……忘れて。とにかく、無理強いするつもりはないネ。勝手に素性を調べたことは謝罪しまス。この通り、」

 更に続けようとするイルクシュリを止め、エノウは自身の胸に手を当てた。
 あそこまで調べ上げていたのだから、取引相手に過去を暴露するだとか、そう言った脅しに出ると思っていたのに。自分にそこまでの価値があるとは思えないが、なら何故商売人の若造をわざわざ調査したのか。
 好奇心は吐き捨てる程湧いて来る。だがこの男相手に探りを入れる気は微塵も起きない。

「じゃ、コレはどうネ? 入隊が不可能なら、情報提供者として協力して貰えませんカ。君はそこらを飛び回っているようだし、仕事柄人脈も広い。何も密偵をしろって訳じゃなく、街の様子とか、そう言うのを教えてくれたらーっテ」
「……えぇですよ」
「え、いいんダ!?」
「ちょっとー……そっちから言うて来たんでしょう。もちろん、頂く物は頂きますが」


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