そこには帰らない‐6


 口の中の水分を飲み干せば、泡の立ち上るような音が、閉じ込めたはずの言葉を連れて浮き上がる。

「あの黒獣は、夫人の子供だったんですよね」
「正確には、子供の意識が僅かに残った黒獣だネ」
「意識、もう残ってなかったんですか」
「最初夫人を見て逃げ出していた黒獣が、林の中で暴れ、一昨日は人にまで襲いかかった。恐らくーー君達が農園に駆け付けた直後辺りで、完全に食われたんだと思ウ」

 ーー今更遅い、もう全部食われたに決まってるだろうが!

 空気を揺さぶった、サンザの叫びが蘇る。らしくない程歪んでいた瞳。張り上げられた声。
 あの激情の意味が、今ここに示された。彼は、サンザは、母親の前で息子が完全に食い尽くされたと、気付いていたのだ。

「黒獣の中で、人の意識がどうやって保たれているのから分からなイ。でもさ、母親を目の前にして必死に黒獣を抑えていた子供が、意識を手放すのって、きっと安心した瞬間なんだと思ウ。例えばーー自分を殺してくれる人が、間に合った時とカ」

 一番恐ろしいのは人だと、サンザは言った。いつの世も、黒獣よりよっぽど。その直後コリンスが事実を隠蔽している可能性が述べられたが、いまいち納得出来ていなかった。ユキトの目には、コリンスは悠然と佇む立派な女性にしか見えていなかったのだから。
 だが、今は分かる。
 彼女が何処まで追い詰められていたのか。嫌と言う程、よく分かる。

「骨だけじゃ、意味ないですよね。遠くから見てもわかりましたもん動物のも一杯混ざってた。人間かどうかは分かるでしょうけど、本当にコリンスさんの息子かどうか、」
「それでも見付かっタ。夫人はそれを見てやっと人前で絶望するコトが出来タ。ユキトちゃん、君はそこで躓いているノ? 違うでしょウ?」

 体が大きく震え、その拍子に籠が膝から滑り落ちた。乾いた木の擦れる音が、足元で二転三転する。
 縋る物がなくなり、とっさに心臓の前で手を組んだ。肺一杯に吸い込んだ冷涼な空気が、燃え盛る血液に温められて行く。イルクシュリの言わんとしていることが理解出来る。彼がこうして揺さぶりをかけて来るのなら、間違いないのだろう。

「伯父さんは知ってたんですよね」

 血を焦がす炎のような、真紅の瞳が頭から離れない。

「夫人が何か隠していること、限界が近かったこと、」

 色の代わりに光を放つ、白銀の後ろ姿がまた一歩離れて行く。

「私があの夫人を見れば、逃げられなくなること、もーー」

 黒獣に家族を奪われ、一人生き残った。コリンスの境遇とユキトの過去は、実はとてもよく似通っていたのだ。
 だが、そんなこと思っても口になど出来ない。入り口は同じ。それでも、辿らざるを得なかった道は、真逆に近い。
 ユキトはまだ五歳の子供だったし、惨劇の記憶は抜け落ちている。死体も血も見ていないし、飢えることもなくすぐアッシアに救われた。動かずとも周りが手を差し伸べ、住む場所も後見人も年頃になれば働き口も、他の誰かが面倒を見てくれた。

「伯父さんが探して来てくれたんです。知ってます?」
「どうだろう、聞かせテ?」
「父さんの骨。手首から先の半分だけでしたけど、名前の入った指輪もしてあったし、家の下から出て来たから間違いないだろうって。周りに止められたけど、ちゃんと私に見せてくれて。怖かったししびらく泣き喚いたけど、あれがなかったら踏ん切り付かなかっただろうなぁって。ずっと、甘えて生きてただろうなぁって」

 言葉が形を持つのなら、これはとんでもなく歪だ。不細工過ぎて、飛ぶにも転がるにも不自由する。
 そこまでして貰ってやっとユキトは一人だと理解した。一歩ずつ、人に支えられ立ち直れた。だがコリンスはどうだっただろう。
 彼女はずっと人に背を向ける立場だった。ユキトが見誤ったように、家族を失いながらも信念を貫く女傑だと。そうあるべきだと周囲から望まれた。縋らず、蹲らず、背筋を正したまま。コリンスは全身全霊で期待に応えた。
 その結果は、今、目の前に横たわっている。

「私みたいな人間は珍しいんですよ。みんな親だったり、子供だったり、兄弟だったり、雇い主とか働き手とか、責任の一端を担う人間なんです」
「うん」
「私は運が良かった。ほとんどの人は、苦しいのに元気な振りして生きてかなきゃいけない」
「うん」
「それで、私はーーそんな人達を減らすことが出来る」

 あなたは待ち望まれた救世主だと、逃げますかと、問い掛けて来たのは誰だったか。
 いきなり言われたって考えられない。本心からそう答えたのは自分だった。
 色無は確実に自分の中にいる。圧倒的な力だ。これを扱えるようになれば、ユキトも黒獣を倒すことが出来る。自分と同じ苦しみを味わいながら、救われず、泥水の中にゆっくり沈む人を減らせるかもしれない。今回のように、あの黒く汚れた物を漱いで、家族の一部を返すことだって。いくらでも、意思さえあればやってやれる。
 誰かを掬い上げる代わりに、一歩でも泥に足を踏み入れれば、もう抜け出せないと分かっていても。

「出来るヨ。君の力なら、俺達よりずっと効率良く黒獣を消せル」

 イルクシュリは何も否定しない。
 苦しみは比べられる物じゃない。君みたいな人間もたくさんいる。その弱さじゃ戦うのは無理だ。どんな慰めも口にせず、ユキトの言動を、最善の未来を、全て肯定した。

「もう、あー、……一生敵わないです」
「うん?」
「伯父さん。絶対こうなるの分かってた。よく似てるってみんなから言われてましたもん」

 痛みが分かる。支えを求められない恐怖が分かる。傍観するには不釣り合いな、大きな力が芽吹いている。出来ることがある。実際に、やってしまった。
 ここまで示されて逃げられるだろうか。賢く己の利益を求める冷静さが、あるいは恐怖を語れる勇気があれば、可能だったかもしれない。
 だが生憎ユキトはどちらも持ち合わせていなかった。それを一番理解しているのは、他の誰でもない。唯一の肉親であるアッシアだ。

 分かっていてここへ進ませたのだろう。ユキトならその目が映した現実に抗うと、分かっていて見せたのだろう。自分で選んだ道は、与えられた物よりずっと険しく、退路を用意してくれない。



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