燃える月の睨む先‐6


 完全な八つ当たりだと分かっていても、勝手に動く足を止められなかった。無慈悲に横たわる巨木の幹を数度蹴り付け、声を張り上げる。

「絶対怪我さすなよ、この、ーーアホ!!」

 いくら不測の事態とは言え、アホはないだろう。情けなさで笑いだしそうになりながらも、エノウはコリンスとリネットの背を押した。

「もうどうしようもない、とにかく行きましょう」

 リネットは不安を浮かべながらも、指示通り馬の手綱を引いた。だがコリンスは、エノウに促されてもその場に留まったまま、じっと地面を見詰めている。
 怪我でもしたのか。心配して覗き込んでみると、乱れた前髪の向こうに、もうあの凛冽な貴婦人は存在していなかった。

「ハイメ……」

 絞り出された声を聞いた途端、エノウは心臓を抉られるような衝撃に襲われた。引き結ばれた唇が、固く閉じられた瞼が、目に見えて戦慄いている。
 コリンスは、肖像画の前で彼を“あの子”と呼んだ。名を囁くことすら、彼女にとっては苦痛なのだと、生気の消えた笑顔を見て悟った。空元気だと自分で言っておきながら、まだ微笑む彼女に同情した。だが、もう今のコリンスには、その空っぽな力すら残っていない。
 すぐ様リネットが駆け付け、コリンスの手を握る。頭が痛い。どうして皆、こんなにも優しい。喚き散らせばいいのに、八つ当たりすればいいのに、何もかも放り出して人を支えることしか考えない。こんなにも、こんなにも優しいから、自分がーー

「顔上げろ!!」

 自分が、容赦のない叫びを上げる羽目になる。

「貴女が止まったらリネットさんも止まるやろ!」

 あまりに献身的な侍女の名を出した途端、コリンスが息を吹き返す。震えが消え、暗がりに飲み込まれていた両眼が再び輝き出した。
 悲しいことに、指導者としての人格が、彼女に蹲る隙を与えない。分かっていた。個人としては、後を追ってしまいたいくらい絶望したのだろう。それでもコリンスが生き永らえたのは、人の上に立つ立場だったからだ。そんな命一つ自由に出来ない身を、今は利用するしかない。

「動け! 自分は死にたくても、人を生かしたいんやったら走ってくれ!」





 煌々と輝く金色の満月。黒の液体が流れる血色の三日月。月が、二つになった。

「アルハル・オ・フォン・リフ」

 すっかり元通りになったサンザは、流れるように言葉を紡いだ。ユキトにはとんと理解出来ない、色霊を呼び起こす古代語。ほんの一節唱えるだけで、サンザの手の中で赤い液体が伸び始める。天を貫き地を穿つかのように、ひたすら真っ直ぐと。ゆっくり時間をかけ、空中で片手間に作り出した物とは比べ物にならない、堅固な大鎌が作り上げられた。

「ヤハナキ・ディ・キドゥ!」

 声と共に刃が跳ぶ。鎌から分裂した赤い四本の剣が、黒獣の四肢を貫き木へと縫い付けた。

「グアアアアアアアアァァァァァ!!」

 それは、咆哮と言うより悲鳴に聞こえた。動きが止まり、自らも林の中に踏み入ったお陰で、ようやく黒獣の全貌を視認する。
 二歩足で立ち上がった熊に、牡鹿の角を、鷲の爪を、蛇の尾を無理矢理繋ぎ合わせたような、醜悪極まりない怪物。首を振り喚く度に、どす黒い液体が周囲に飛び散る。
 足が震える。喉が渇く。不快と恐怖以外の何者も生まない存在、これが、コリンスの息子を無惨に食い殺した元凶か。

「……沢山聞きたいことがある」
「後になさい」
「コリンスさんは死ぬつもりだったのかな」
「それ以上無駄口叩くならあの格好付けの所へ放り投げますよ」

 夜の帳が下りる前、農園の視察から戻ったサンザに聞かされた。コリンスの夫と息子は黒獣に殺され、恐らく彼女は追い詰められている。一回目の黒獣出現に関しても、不自然な報告が上がっている。だから、もしかしたら、

「私は、貴女に黒獣討伐がどう言う物か示すように命じられました」

 鎌の刃を地面に下ろし、サンザが呟く。

「そして、貴女にいつものようにしろと言った」

 ーー覚えていたのか。思わず息を飲み、何も言い返せないままサンザの横顔を凝視した。風が吹く。高い鼻梁に纏わりつく前髪は、そのままにされていた。

「貴女はこの光景を見て何を思いますか。何を行うべきだと思いますか。私はこれからあの黒獣の中心を貫き殺します。そこに、何を望みますか」

 耳が痛い程の悲鳴。視界を汚す醜い姿。大地を汚すその痕跡。黒獣は、一片たりとも必要のない存在だ。ずっと、そう思う。いつからか、思い起こそうとすると、鼻の奥で何かの焦げた匂いが広がった。いつだってそうだ。だって奴等は、沢山の物を一度に根こそぎ奪う。
 頭が揺れ、目の前の腕にしがみ付いた。背中にサンザの長い髪が触れる。時間がない。浮かぶ言葉を、躊躇して飲み込む暇などなかった。

「黒獣を、消したい」
「それはそれは、立派な志です。では、そのように」
「違う! 黒獣だけを消したいの! 消して、ーーコリンスさんの子供を、取り戻したい!」

 寄りかかったまま、それでも顔を上げた。これも、この男に言われたのだ。全くその通りだと感心したのを覚えている。俯いたまま物事を理解出来る程、優秀な頭脳は持ち合わせていない。

「あれは死んでいます」
「分かってる! でも、黒獣のあれ見て! 腹から馬の足とか、なんかよく分かんないけど、尾とか出てるの! あいつ等もしかしたら食べた物がそのまま身体の中に残ってるかもしれない!」
「それで?」
「コリンスさんの子供も、何処かに残ってるかもしれない。それを返したい。でないと、今その場しのぎで助けても、あの人きっと壊れる」

 返した方が壊れる。そう反論されるかと危惧したが、サンザは無言を貫いた。身勝手だと分かっている。そんな危険を冒さずとも、サンザはすぐ様黒獣を倒せる。だがそれでは駄目だ。何故と言われれば、自分も同じだからと答えるしかない。

「コリンスさんの手腕は、必要でしょう? 種油の流通経路を復活させるにはあの人の力が必要でしょう? 失ったら惜しい人、違う!?」

 サンザに同情を求めても無駄だろう。心の底に何を思っても、黒獣の討伐を最優先に行動出来る。だから具体的な損失を訴えるしかなかった。
 ただ、小難しい政治情勢など知りもしないユキトには、これが限界だ。サンザに理屈を掲げて反対されれば、もう打つ手がない。

「だから、取り戻す方法があるなら、教えて」

 取り戻した所でコリンスが救われる保障はない。ただ、この討伐へ同行させられた理由を考えると、導き出せる結論は一つしかなかった。だって命じたのは、他でもない。

「……赤い花か、果実。貝殻でも構いませんよ」

 鎌を右手に携え、サンザはユキトの手をやんわりと解いた。気が付けば、黒獣を拘束する刃は後一本になっている。

「は、な? 貝殻?」
「要は、赤い色を持った自然物。それがあれば、私はこの彩水をすぐ様大量に増やすことが出来ます。そうすれば、黒獣だけを消すことも、あるいは可能かもしれない」

 理屈は分からない。色霊のことなど、まだほとんど知らないのだから。それでもサンザは可能性を示した。それだけで、ユキトにとってはもう十分だった。



[ 44/65 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -