燃える月の睨む先‐3


 アッシア様、眠らせて下さい。
 屍の方がもっと血色の良い顔色をしている、そう思わせる程、執務室に現れたイルクシュリは疲弊していた。
 普段整えられている髪は乱れ、色眼鏡も外している。覚束ない足取りでソファに辿り着くと、要望を端的に告げ、そのままうつ伏せに倒れ込んでしまった。

「えーっと……二つ……や、一つ、後の鐘が鳴ったら起こして下さイ」
「国家元首を雄鶏扱いか、いい度胸だな」
「ほんとにお願いしまス自分の部屋で寝たら絶対起きれないんでス、アッシア様が見張ってくれてるなら、安心してーー」

 ソファに声が吸い込まれ、何とも聞き取りにくい。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、現在イルクシュリに任せている仕事の量を考えると、そう無下にも出来なかった。

「大丈夫でス、ちゃんと片付けて、ちゃんとシャーディの後始末に行きますかラ……」

 羽根ペンをペン立てに戻し、極力緩慢な動作で立ち上がる。イルクシュリが身を沈めたソファの背凭れに腰かけると、隈に縁取られた瞳が、赤い襟の向こうで揺れた。
 これが女性なら上着の一つでもかけてやるのだが。さすがにそこまで世話する気にはならない。

「次はギデに任せる。お前は別に回れ」
「あーそれは無理ですネーだってユキトちゃんのコトがありますもン」
「倒れるぞ」
「アッシア様に言われたくないでスー」

 肩が上下し、恐らく笑っているのだろうが、その声に力はない。
 人材不足は十年前から問題視されていた。黒獣の討伐ならば、兵を集めればまだ“何とかなる”。だがそこに人間の問題まで絡んで来るとなると、割り振れる者は極端に制限されてしまう。解消しようと思っても、短期間で信頼に足る人間が増殖するはずもない。
 今回のシャーディでの騒動、構造自体は非常に単純だった。ただ黒獣が出現しただけ。その場所が、たまたま重要な地域だっただけの話だ。
 問題は、ユキトとコリンスの存在。彼女等が関わってしまった以上、黒獣を倒してさぁ終わりとはならない。
 柔らかい橙の髪を引っ張ると、何とも不細工な悲鳴が上がる。アッシア様、さすがに死にまス。抗議を受け入れ解放すれば、糸の切れた人形のように、肘掛けへ側頭部を打ち付けた。

「コリンスさんも、倒れたら良かったんですヨ」
「今のお前が言っても説得力ねぇぞ」

 今度は愛想笑いもせず、微かに身じろぐとそのまま背凭れに顔を埋めてしまった。
 そんな状態で眠っても悪夢しか見ないだろうに。思いはするが、安眠させる術など持たないアッシアに、眠りを妨げる権利はなかった。
 コリンスも、未だ悪夢の中にいるのだろう。八年前に夫。二ヶ月前に息子を黒獣に食われてしまったのだから、傷が癒えるはずもない。
 しかも夫の忘れ形見である息子は、無惨にも彼女の目の前で短い生涯を終えた。同じ馬車に乗っておきながら、息子だけ壊れた扉から放り出され、飢えた黒獣の餌食となったーーそう聞かされた時は、さしものアッシアも頭を抱え、あまりに酷だと誰もが項垂れた。
 狂ってもおかしくない惨事。それでも尚、真っ直ぐ前を見据えるコリンスに、アッシアは薄ら寒い物を感じていた。狂気より余程やっかいな、冷えた激情。それはかつて、ここで横たわる男に覚えた寒気と同じ物だった。

「……重ねるなよ」

 無遠慮な忠告に、「まさか」と返され思わず息を呑む。熟睡していなくとも、呟きを拾える程、意識がはっきりしているとは思っていなかった。

「俺のは、逆ですヨ、……真逆」

 寝起きのように掠れた声で、それでもはっきりと笑った。無言のまま見下ろすと、襟で口元を隠すように俯き、再び背凭れに表情を隠す。もう話しかけてくれるなと、丸まった背中が訴えて来た。
 当たり前の現実は、常に変わらないはずなのに、時たま容赦なく全身を揺さぶる。
 ーーそうだ、もういない。
 一人気丈に立つコリンスと手を繋ぐ者も、眠るイルクシュリの背を撫でる者も。ただの一人だと誓い合った彼等は、とっくの昔に、黒獣の腹に収まってしまった。





 耳に飛び込んで来た悲鳴が、苛立ちを嫌と言う程煽って行く。足手纏いがまた増えた、遠慮なく愚痴を吐き捨てた後、移動し始めた標的に狙いを定めた。
 わらわらと使えない奴等ばかり。さっさと終わらせてしまえばいいのに、不要な情けに縛られているのだとすれば、尚更使えない。こんな物一思いに縊って終わりだろう。何故それが出来ない。

「奥様! いらっしゃるのでしょう、奥様!」

 馬の駆ける音と共に、また同じ声が農園に響く。
 悲痛な叫びを迎えるように、黒獣は林の中を移動し、巨木をいとも容易く薙ぎ倒して行った。地響きが腹の底を揺らす。馬の息遣いが一際近くで聞こえたと同時、溜まりに任せる溜まった鬱憤が爆発した。
 武器を構え、この喧騒の終わりを切に願う。願わくは、この邂逅が腑抜けの起爆剤にならんことを。

「ーー死に損ないが、調子乗ってんじゃねぇよ!!」




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