夕闇と共に‐2
何なのだろう、この重圧は。
幾多の敵意に囲まれたかのような、数多の嘲笑に包まれたかのような、得も言われぬ圧迫感。
それがたった一つの視線から発せられている。
いつか呼吸すら止められるのではないか。視線にそんな力ないと分かっていても、思わず錯覚してしまいそうになる。
――逃げるか、だなんて。
正直、そんなこと言われても分からないとしか答えられない。まだ色無がどう言う力か理解していないし、伴う期待がどれだけの物かも想像出来ない。
「……いきなり言われたって、考えられない」
「なら考えておきなさい。いずれ嫌でも選択することになる」
選択? 何を? 逃げるか否かの選択を?
聞きたいことは山積していたが、あまりに量が多過ぎて上手くまとまらない。
何より、言葉にしてはいけないと、何故か思ってしまった。今は何も聞くべきでないと警告されている。
ユキトを見るサンザの目にいつもの気怠げな光は宿っていない。細められた双眼に見て取れたのは、哀れみ。親を亡くし一人酒場で働いていると話した時に向けられる、同情の瞳とよく似ていた。
何を同情されているんだ自分は。色無と言うのは、そんな哀れまれるような力なのか。疑問は渦巻く内に凝縮され、次第に恐怖へと姿を変えた。
漠然とした負の感情に、ユキトは思わずサンザから目を逸らしドアノブへと手をかけた。一人は一人で不安だが今はサンザと向かい合っている方が辛い。
サンザも無言のまま再び踵を返した、ならもう、いいだろうこれ以上は。
身を反転させれば頬を緩い風が撫で視界の端で夕日が輝く。ああ、そうだ片窓を開けっ放しにしていた。冷え込む前に閉めなければと、正面を見据えた瞬間だった。
燃えるような夕焼け空。
その中に、影が一つ躍る。
視界に存在を認め、左右に大きく広がる翼から鳥であることは理解出来た。だがその異様な風体にすぐさま体中から血の気が引いて行く。
真っ直ぐこちらに向かって飛翔して来る巨大な鳥は、目を焼く橙にすら染まらない完璧な漆黒だった。
黒いだけの鳥なら五万といる。どうして恐怖を抱いたのかは分からない。ただ、本能的に察してしまったのだ。
アレは悪意を持っている。
ランプが落下し砕け散る音と、しわがれた獣の鳴き声と、甲高い人の叫び声。人の叫びが自らの物だと自覚した時、ユキトの体は弾かれたように動き出した。
途端、ランプが割れた時の物とは比べ物にならない音が響いた。締め切られていた片側の窓が粉々に砕け、舞う硝子片の中を黒い影が走る。あれだけの速度で硝子に突っ込んだと言うのに何故まだ平然と飛べるのか。
あきらかに異常な存在を前に、ユキトは廊下へ逃げだそうと扉に体をねじ込んだ。右半身を廊下に出し、後少しで部屋から脱出出来る。
微かな安堵が胸を過ぎった瞬間だった。
左腕が、何かに引っ張られたかのように重くなる。
頭では分かっていた。振り向いた所で何にもならない、それよりも足を動かして逃げなければ、と。
だが体はそんな忠告を無視して、あっさりと首を動かしてしまう。
「ギャアアアアァァァァ!!!」
しわがれた獣の咆哮が今度は耳元で木霊した。
動かした視線の先、左腕に食い込んだ爪が黒々とした光沢を放っている。
視界一杯に広がる黒い翼。
鷹を思わせる大きさの鳥は、体中から黒い液体を撒き散らし、ユキトの腕を掴んだまま三度絶叫した。
喉が引きつる。悲鳴すらマトモに発せられない。
「――っっ、い――!」
「ユキト!!」
様々な音が狭い廊下で反響する。名を呼ぶ声が誰か理解出来ないでいると、何処からか現れたナイフが鳥の左目に深々と突き刺さった。
「ギィッ!!」
悲痛な唸りが嘴から漏れ、爪の力が微かに弱まる。ユキトは混乱しながらも必死に左腕を振り回した。
鳥は翼を振り抵抗するが、二本目のナイフが今度は首の肉をえぐり、やっと鋭い爪からユキトの腕を解放した。ユキトは左腕を右手で抱き込みながらナイフの飛んで来た方向に目をやる。
「サンザ、ユキトを頼む!!」
マントを翻し駆け寄って来たのは、ナイフと愛刀を携えたアッシアだった。その声にユキトはやっと痛覚を取り戻す。
サンザに肩を掴まれ引き寄せられるが、左手を襲う引きつるような痛みに呻くことしか出来ない。と、次の瞬間、鳥の横っ面にアッシアの右足が凄まじい速度で打ち込まれる。
鳥は大きくバランスを崩し開けっ放しの扉に叩き付けられた。そしてそのまま体勢を立て直すこともなく、アッシアが掲げる白銀の剣に貫かれた。
鳥は足と嘴を滅茶苦茶に動かし抵抗したが、切っ先は喉笛を潰し断末魔すら発することを許さない。
アッシアは剣を鳥の喉の中で回転させ、一瞬の間すら置かず真横に振り払った。
体毛ごと引きちぎられた首が宙を舞う。
そこらに散らばる羽根も、ユキトの足元に転がった胴体も、首の断面から零れる液体も、何から何まで真っ黒。夕焼けの橙に照らされる全てが、非現実的な光景に見える。
アッシアは鳥の胴体を掴み上げると、首が吹き飛んで行った部屋に放り込み、荒々しく扉を閉めた。
「閣下……! これは一体、」
「こっちの台詞だ! 何でこうも黒獣が――おいユキト、腕見せろ!!」
サンザの胸に凭れかかっていたユキトは、アッシアの怒声に肩を震わす。
「だ、大丈夫、ちょっと痛いだけ……」
「いいから見せろ!」
掴まれた左腕には、鳥の爪にえぐられた傷跡がくっきりと残っていた。肉を持って行かれはしなかったようだが、それでも傷口からじんわり血が滲んでいる。
アッシアは胸元から取り出したスカーフを巻き付けると、間髪入れずユキトを肩に担ぎ上げた。いきなり高くなった視界に目眩を覚え、ユキトはとっさにアッシアのマントを握り締める。
「処理が終わったら、サンザ、荷物まとめて裏口に来い」
「は?」
「早くしろ時間がねぇ!」
サンザの返答を待たずアッシアは駆け出した。もちろん、肩にユキトを担いだまま。
「ちょちょちょっ、伯父さんっ、何なの!?」
この台詞を朝から何度口にしただろう。何故、どうして、何が、どうなっている。問う相手はその度違ったが、マトモな説明が返って来たのはイルクシュリくらいだ。
どうして黒獣に二度も襲われて、どうしておかしな力が目を覚まして、どうして救世主呼ばわりされて、どうして――
「ユキト」
切迫した声が脇腹に響く。
ユキトは首を捻ってみたが、表情を窺い知ることは出来ない。それでも、遠い昔に聞いた覚えのある声色は、ユキトの困惑に満ちた胸中を貫く。
「安心しろ、何とかするから――……今は何も考えるな」
腕の痛みなんて吹き飛んだ。
傷一つ付いていない頭の奥の方が、泣き叫びたい程痛かった。
まただ、また言わせてしまった。全ての弊害をたった一人で背負う言葉。二度と言わせたくなかったから自分なりに前を向いて来たのに。
「――ユキト……?」
十年前と同じように、外套に顔を押し付け息を殺して。
それでも涙だけは流すまいと、ただひたすら耐えた。
情報はあまりにも唐突だった。 カトンの北に位置する集落。そこに滞在していた同業者から、とびきり速い昼蝙蝠が飛ばされて来た。添えられた手紙には走り書きの一文のみ。
――王連院がカトンに向かった。
手紙を処分することも忘れ一目散にアッシアが休む寝室へ向かうと、ノックも声掛けもせず扉を蹴破った。
「閣下、王連が来ル! 早くユキトちゃん逃がしテ!」
そこからはもう、文字通り目が回るような慌ただしさだった。
アッシアは弾かれたようにユキトの元へ向かい、自分はギデオーグとイサルネに連絡してその足でサンザと合流した。サンザも困惑していたが、さすが不足の事態を日常として来た色霊師。
事情を飲み込めないままでもしっかり荷物をまとめ侵入して来た黒獣の「処理」も終えていた。
「やるネーサンザ!」と頭を撫でようとしたら、全力で後頭部に肘が入る。あまりに的確な急所への一撃。眼前で下品に瞬く星を眺めながら、宿舎の裏口に急ぐ。
「イリ、どう言うことですかこれは」
「情報屋から連絡入っタ。王連院がこっちに向かってるらしいノ」
「……王連院が……?」
「何が目的かは知らないけど、ユキトちゃんの存在が漏れたんだとしたらマズイ。非常ーにマズイ」
王連院にはアッシアと敵対する貴族が多く在籍している。奴等はアッシアに奪われた権力を奪い返そうと年中躍起だ。
万が一、アッシアの肉親且つ色無を持つユキトの存在が露見すれば――
同じことを考えたのか、サンザは至極面倒臭そうに嘆息した。
「利用されますね。弱味を握れる上に稀有な能力を持つとなれば……人質辺りが妥当でしょうか」
「そーだろーネ。ま、最悪アッシア様だったら切り捨てられるかもしれないけど、どっちにしたって色無が王連側に行くのは避けたイ」
そこまでの言葉に次いで、下衆た笑いが零れた。あんなに小さくて非力な女の子の安全よりも、切り捨てられるか否かの判断を先に推測してしまうなんて。
隣で駆けるサンザに目配せしてみれば、相変わらずの無表情で淡々と歩を進めている。
「それで逃がす訳ですか。確かこの宿舎には抜け道がありましたね……」
「そ。人気のない場所に出れるから、そこからは日が落ちるまで馬で移動しテ――」
「馬? ……ユキト・ペネループは左手を負傷していますが?手綱を握れるん、で……」
弱まる語気に比例して、サンザの顔色が見る見る変わっていく。自分で問い掛け、話しながら気付いてしまったのだろう。
荷物をまとめるよう指示された理由に。
王連院の脅威を知るイルクシュリがここまで落ち着き払っている理由に。
「だーかーラ。君も一緒に、ネ」
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[mokuji]
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