今知る、その名は‐7
湯気立つティーカップが、木製の机に音もなく置かれる。
茶を用意した女性警備兵は滑らかな所作で一礼した。黒髪の青年はそれに答え、「ありがとう」と労いの言葉を掛ける。警備兵ははにかんだように微笑むと、無駄口を叩くこともなく執務室から立ち去って行った。
とりあえず、礼儀として出されたカップに口を付ける。
一口含んだだけで舌には濃厚な風味が絡み付き、鼻の奥まで甘い香りが広がって行く。一般的な紅茶だが、この種類はあまり好みでなかった。まだ温かいのが救いだろうか。冷えるとこの風味は更に存在感を増す。
ギデオーグはカップを皿に置くと、間髪入れず机に突っ伏した。傍らには数枚の紙と、羽ペン、黒いインクの満ちた容器。
「寝るな。起きろ。頑張れ」
後頭部に打ち付けられたカップの底は、自分が手にする物と同じく仄かな熱を帯びていた。
「痛てぇっスよアッシア様! もう殆ど完成してますって!」
ギデオーグは椅子に腰掛けたまま視線だけ上司へ向ける。机の脇に立つ上司は、片手にカップを携えたまま、気味が悪いくらいにこやかな笑顔を浮かべていた。
「殆ど、だろ。最後までやれ。やってから力尽きろ」
「クっソ真面目……絶対ハゲる」
「聞いたか? 最近この飲み方流行ってるらしいぞ」
「ギャアアァんなの聞いたコトなっ、スイマセンやります!!」
無理矢理頭を上げられたかと思えば、鼻にポットの先を突っ込まれそうになり、ギデオーグは必死に抵抗し事なきを得た。
改めてほぼ完成した報告書に手を伸ばし一度咳払いする。
「えー、商人――もう、密売人でいいですね。やっぱり黒獣の死骸を売り捌くつもりだったようです」
「……」
「んな怖い顔しないで下さいよ!」
「生まれ付きだ」
「大嘘……あ、いや、それでですね、仮死状態の黒獣を甘く見てたんでしょう、粉末にせず個体で持ち歩いてたようで」
ギデオーグは自ら書き綴った文章に目をやり、顔をしかめた。
黒獣は、色霊師であれば通常の攻撃でも倒せる。
だが一般人が倒す為には、再生が追い付かない程バラバラにし、更にそのパーツを一気に焼き尽くさなければならないのだ。
手間もかかる、人手もかかる、危険も高い。色霊師のそれと比べて余りにも非効率的。
だがその再生力を逆手に取り悪用する輩も存在する。未知の存在と言う物はどうしてこうも欲を引き寄せるのだろうか。最早、悪趣味の域を逸脱している。
黒獣が出現した当初はまさかこんなことで被害が拡大すると思っていなかった。それはアッシアにとっても予想外だったようで、初めて報告を受けた時の憤り様は筆舌に尽くし難かった。
……今思い出しても身震いする。ギデオーグは紅茶を一口飲み干し暖を得た。
「金持ちの考えることは理解出来ねぇっすわ」
「まぁそう言うな。切迫すりゃ、お前だって縋るかもしれねぇぞ?」
「ちょっ、馬鹿言わないで下さいよ! 俺は化け物食ってまで生き長らえようなんて――」
自らの命惜しさに禁忌を犯す人間だと誤解されては堪らない。ギデオーグは抗議する為とっさに声を荒げてしまった。
「――っと、あっ、……スンマセン……」
幾ら気心の知れた仲でも相手は国家元首。さすがにこの態度はマズいととっさに謝罪する。
アッシアは特に機嫌を損ねた様子もなく、むしろ驚いたように目を見開いていた。
「いや……俺の言い方が悪かったな。別にお前が自分の為に黒獣を利用するとか、そう言う意味で言ったんじゃねぇよ」
平然とした返答に、ギデオーグは胸を撫で下ろす。 アッシアは国の頂点に君臨していると思えないくらい、非常に気さくで庶民的で、悪く言えば、貧乏臭い。
そんな性分のせいか、偶に元帥閣下と会話していることを忘れ思わぬ軽口を叩いてしまう。普段交わす友人のようなやり取りとはまた違う。部下として弁えなければならない礼儀を欠いた軽口だ。
ギデオーグは自らの軽薄さを恨みつつ、その発言に至った経緯を思い起こした。
「“そう言う意味じゃねぇ”って、じゃあどう言う意味なんスか?」
決してつっかかろうと思った訳でなく、単純な好奇心。
確かにアッシアは「切迫すれば黒獣に縋るかもしれない」と発言したが、「自分の命に切迫すれば」とは言っていない。
では一体、何に切迫すれば、異形の亡骸にまで手を出すと考えているのだろう。ギデオーグの質問に他意がないと理解したのか、アッシアは顎に手を当て数秒考え込む。
「あー……だから、だな。自分のことならある程度諦めも付くが、それ以外――家族や友人相手だと、そうも行かなくなるって意味だ」
「……ん? え、俺も他人のことになったら見境なくなるかもしれねぇってことですか?」
「お前みたいなのに限って、な。人間出来てると必死さが他人に行くんだよ」
「ヤベ、俺明日死ぬわ。閣下に褒められた。これ天変地異の前触れ、」
「明日と言わず今日行け」
「はーい出ました迷いなき抜刀! そう言うの止めましょうよ、閣下の冗談冗談に聞こえないんスから!!」
「安心しろ冗談じゃねぇ」
ギデオーグは顔の引きつりもそのままに必死で上司を宥めた。
やはり性分は性分。思い直した所でこの軽口はどうしても治らないらしい。ずれた軌道を何とか修正しようと、とっさに言葉を発する。
「やーでもなんか分かりますわ! 人間好きな相手の為なら何でもしちゃうモンですよね!」
特に深く考えていなかった。ただアッシアの怒りの矛先を変えようと、話題を少し前の物に巻き戻そうとしただけ。それなのに、目の前の赤い瞳は、あからさまに歪められた。
アッシアの性格上、そう易々と悲しみを表に出したりしない。
今も普段のように笑って見せただけ。ただ、それはともすれば泣き顔に見えてしまいそうな脆い笑みで。強く凛々しいアッシアを見慣れていただけに、ギデオーグはとっさに返答出来ず沈黙してしまった。
「そうだ、だから――」
鐘の音がアッシアの言葉を遮った。
荘厳さとは程遠い、高く薄っぺらい騒音だ。
部屋の中で反響するそれは、不快なまでにギデオーグの鼓膜を揺さぶる。
「時間だな。報告会に出て来るから、お前は作業続けとけ」
「閣下――」
「終わったら休んでいい」
アッシアは鐘の音を口実に、半ば無理矢理会話を終えた。
その表情はいつもの彼その物で、相変わらず深い威厳と自信を湛えている。だがギデオーグには聞こえていた。猥雑な金属音に妨害されながら、それでも確かに。
――そうだ、だから、――何でもしたから、この国は死んだ。
彼の名君が発したとは思えないくらいか細い声は、鐘の音よりずっと鮮明にギデオーグの中で反響した。
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