今知る、その名は‐5


 ゆっくり開いた扉の向こうには、確かにアッシア・グランセスがいた。
 その姿を目に留めた瞬間から、ユキトの頭の中は荒れに荒れた。目の前にいるのは元帥閣下だ。国家元首だ。権力と、純粋な力の象徴。
 そんな人間が、何故一人の兵も伴わず訪ねて来る?
 硬直する頬に手を添えたまま、ユキトは真っ直ぐアッシアを見つめ続けた。アッシアは落ち着いた足取りで、まずイルクシュリの側に歩み寄った。
 いつの間にイルクシュリは立ち上がっていて、軽く会釈すると右手を椅子に向け差し出す。着席を促したことくらいユキトにも理解出来た。だがアッシアは「大丈夫だ」と呟きその勧めを断る。

「難儀だったろ、手間取らせたな」
「いえいえーそれが俺のお仕事ですかラー ま、ちゃんとした報告は後にしますヨ」

 交わされる会話は、一言一句ユキトの中に留まらない。
 叫び出し走り出しそうになる衝動を抑え、何とかこの場から逃げ出せないかと試行錯誤するばかりで、情報を取り込む隙間なんて微塵もなかった。
 喉の水分がどんどん枯渇して、代わりに額を嫌な汗が伝って行く。
 緊張、と言えばいいのだろうか。こんな状況でアッシアと対面するなんて思ってもみなかった。
 国の長を目の前にして、無礼を働かないか、何を目的として訪ねて来たのか、そんな不安が積もって緊張してしまったのだろうか?

 ……いや。違う。自分の平生を綺麗さっぱり食い尽くした物の正体を、ユキト自身一番よく理解している。
 これは「恐怖」だ。国民から絶大な指示を得る英雄が、今のユキトには怖くて怖くて堪らない。
 無言を貫くユキトに、アッシアの瞳が向けられる。かち合った視線にユキトは息を呑んだ。彼から、アッシアから、どんな言葉が発せられるのか。最早想像する余裕さえ失われていた。
 アッシアの隣に並んでいたイルクシュリは、恭しく一礼すると後ろに数歩下がる。それと入れ替わるようにアッシアは更に歩を進めた。
 二人の間にもう殆ど距離は存在しない。ユキトは思わず俯くが、後頭部に痛い程の視線を感じ、全く落ち着けなかった。
 しばしの沈黙。静寂に包まれる部屋の中で、ユキトは自身の心音だけを聞き続ける。

「一般人が巻き込まれたと聞いて、見舞いを、と思ったんだが――」

 唇の動きは緩く、零れた声は穏やかだった。
 弾かれたように顔を上げたユキトは、アッシアを見詰めた。アッシアは微笑みこそ浮かべていないが、その顔には明らかな安堵が浮かんでいる。
 厳しくも優しい統治者の瞳。まさか、本当に自分を見舞う為だけにやって来たのだろうか。受け答えも出来ないユキトを叱るでもなく、柔らかい声色のままアッシアは続けた。

「見た所怪我はないようだが……どうだ? 何処か、痛む所はないか?」

 さすがにここまで声を掛けられて黙ってはいられない。大袈裟なまでに背筋を正すと、ユキトは裏返る声を絞り出した。

「大丈夫、です! どこも、はい、全く! 無痛です!」

 的を得ているのかいないのか判断し難い返答に、アッシアは思わず苦笑した。見れば、後ろに立つイルクシュリも同じように笑いながら頭を掻いている。
 二つの笑顔を見比べながら、ユキトは先程までの重苦しい空気が一変するのを感じた。
 そうか、やっぱり、イルクシュリは知らないのか。なら大丈夫だ。イルクシュリがいる限り、危険はない。アッシアが浮かべた物よりずっと無垢な安堵の表情を、ユキトは二人に向けた。
 アッシアもまた微笑む。春の日差しのように穏やかで、夏の涼風のように心地良い、柔らかな微笑。

「なら思いっ切り殴れるな」

 不穏当な発言は確かにアッシアの物で。
耳を疑う間も、瞳を見開く間もなく、後頭部で鈍い音が鳴り響いた。
 せっかく上げた顔が衝撃によって勢い良く下を向き、急激に引き伸ばされた首筋は、歪な音を立てしなる。
 膝とかち合う寸前で頭は何とか停止した。頭を垂れたユキトは、段々と押し寄せてくる震えに大人しく身を任せる。
 殴られた。殴られた。目にも止まらぬ速さで、拳骨で、頭を。

「このっ――馬鹿が!! 何考えてんだお前は!!!」

 窓枠を外さんばかりの怒声が響き渡る。
 アッシアは固く握り締めた掌を震わせ、空いた左手でユキトの頭を鷲掴みにした。

「ちょっ、痛っ、痛い! 痛いって!!」
「あー痛いだろうなぁ、髪ひっ掴んでるからなぁ!! 思う存分痛がれ!」
「もげる!」
「もげろ! 俺が許すからもげろ!!」

 支離滅裂で噛み合っていない罵詈雑言の押収。ユキトは目の端にうっすら涙を浮かべながら、アッシアの大きな掌を掴み必死に抵抗した。
 だが大の大人、しかも男性の腕力に適うはずがなく、引き伸ばされる頭皮の痛みは変わらない。
 痛みと困惑と恐怖に頭を掻き回される。それでもユキトは視界の隅に呆然とするイルクシュリを見つけると、上擦った声で必死に問い掛けようとした。マズいんじゃないか、一般人にこんなことするなんて。そう口にしたかったのだが、思考も舌も上手く動かず、単語を発するだけで精一杯だった。

「だからっ、ほら、イリさん、私一般人――……!」
「……お前、……俺がそこまで頭悪いと思ってんのか? イリは“知ってる”から遠慮なくやってんだよ!!」

 不安定だった情報が、ユキトの中で強固に組み立てられた。
 アッシアがわざわざこの部屋を訪ねて来た理由。無慈悲に自分の頭を打った理由。元帥閣下と言う立場ある人間が一般人を容赦なく叱咤する理由。
 何もかもが、ユキトにとっても、アッシアにとっても、当たり前のことだったのだ。理解し切った瞬間ユキトは腹の底から声を張り上げた。

「――っっだったら最初っからそう言ってよ、伯父さん!!」

 ――十年前。
 ユキトが両親とともに暮らす小さな小さな集落が、突如何者かに襲撃され壊滅した。犯人も経緯も不明。唯一生き残ったユキトに襲撃当時の記憶は残っておらず。
 ただ、両親も思い出の場所も住む家も全てなくした現実だけが残された。
 そんなユキトの後見人となり、働き先を探しこの街に住まわせたのは、他でもないアッシアだった。
アッシアはユキトの父の兄――今となっては、唯一の肉親と言うことになる。
 誰にも話せない、それでも確かに血の繋がったたった一人の家族。だがその家族は、ユキトの頭を鷲掴みにしたまま烈火の如く憤慨している。
 イルクシュリが二人の関係を知っていると確定した今、もうユキトに他人を装う必要はなくなっていた。

「敬語使って損した!」
「お前、この状況でよく減らず口叩けるな……!」

 頭蓋骨の軋む音と共に、アッシアの手に力がこもる。

「痛い痛い――!! いっ、イリさん! 助けて!」
「やー……うん、遠慮しとくヨ。どうぞごゆっくりネ」
「いやあああ見捨てないでぇ!!」
「ちょっと黙れユキト!! お前声デカ過ぎんだよ!」
「そりゃ伯父さんの姪だしね!!」
「よし分かった歯ぁ食い縛れ!!」

 本日二度目の拳骨が、今度は額に直撃した。
 そこまでされてユキトはやっと口を閉じる――正確には、余りの痛みに唸り声しか上げられなくなった、と言った方が正しいかもしれない―― 本気の殴打でないとは理解している。もしアッシアに全力で殴られれば、それこそこうやって唸ることすら出来ないだろう。
 だが幾ら何でも痛過ぎる。無遠慮過ぎる。自分だって、時々忘れるが少女と呼ばれていい人間のはずだ。

「もうちょっと、手加減っ、してよ……!」

 唸り声に混ぜ発した不満は、三発目の拳骨をもたらした。一・二発目に比べれば余程緩い威力だがやはりとんでもなく痛い。
 体中の関節を捻り何とか痛みを誤魔化すと、霞む視界にアッシアの腕組みする姿が入った。

「……お前にこんな所で死なれたら、ウーヴェとカーリンに顔向け出来ねぇ」

 影の落ちた表情を見て、ユキトの胸に罪悪感が芽生える。
 いきなり殴られ怒鳴られた理不尽は許せないが、姪である自分を心配してくれたのは事実。
ユキトは推考の後僅かながら頭を下げた。

「……ご心配おかけしました」
「全くだ」

 頭に置かれた掌は、同一人物の物とは思えない程優しく髪を撫でる。
 呆れたような嘆息から伝わる愛情と心地良さ。よく考えれば、アッシアから露骨に心配される機会などあまりなかった。何処か気恥ずかしくなったユキトは誤魔化すように肩を竦める。



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