今知る、その名は‐1


 カトンの中心部に建つ、市街警備隊本部。
 少々古い造りながらも、診療所から訓練所、宿舎、演習用の広場まで設けられ、その面積は他の宿舎と比べても遜色ない物だった。
 高い位置まで昇った日の光を浴び、一際大きな宿舎がまた一際大きな影を作り出す。
 カトンは「あの」災厄から十年間、奇跡的に黒獣の被害を受けることなく過ごして来た。それが偶然か必然かは誰にも推測出来ないが、少なくとも、市民にとってこの建築物は安らぎの象徴であったはず。
 黒獣の牙を受けたことのない街。中央に鎮座する巨大な警備隊の本部。災厄の恐怖を誤魔化し、自分達の生活を楽観するには充分な材料だった。
 だが今は。安らぎなど程遠い不安そうな表情をした市民が、本部正面に押し寄せていた。
 騒ぎ立てはしないが、警備兵から何とか情報を聞き出そうと待ち伏せているのだろう。しかし正門を警備する兵は、幾ら聞こうと「俺達が教えて貰いたいくらいだ」の一点張り。警備隊内でも正確な情報が行き渡っていないのか、と、住民達が肩を落としていたその時。

「はいはい、道開けて下さーい元帥閣下の御到着で御座いまーす」

 住民の壁の背後からひょっこり顔を出した青年が、おどけたように声を上げた。
 こんな淀んだ空気の中よくおどけられる物だ、と、彼一人なら罵られていてもおかしくなかっただろう。しかし住民達は、青年の声に振り向くのとほぼ同時、皆揃って言葉を失った。
 おどけて見せた黒髪の青年。その背後に停められた馬車の中から、一人の男が姿を見せる。

 紋様の刻まれた肩当てと白いマントを着用しているが、緑色の軍服は青年と同じ物。
 白銀の短髪は昼前の強い日光に照らされ、上質な銀細工のように眩い輝きを放っていた。たっぷり時間をかけ住民達へと向けられた瞳は、目が覚めるような血色の赤。
 誰もが息を飲み、何度も何度も男の姿を確認する。
 今彼等の前に立つのは、間違いなく、クジェス共和国軍元帥及び国家元首、アッシア・グランセスその人だった。

「元帥閣下……!」

 誰かが呟くと、堰を切ったように皆口を開いた。

「閣下! 何故このような所に!?」
「元帥様がわざわざ出向くような事態なの……!?」

 喧騒が一気に広がり、疑惑と焦燥の視線がアッシアに注がれた。アッシアは無表情のまま、目だけでグルリと辺りを見渡すと、顔をしかめ目元の皺を深くした。
 そして一息吐き出し、次にその倍以上の空気を吸い込む。

「警備兵!!」

 屋内でもないのに、怒声は分散されることなく真っ直ぐ警備兵の耳を射抜いた。
 正門を警備していた二人の兵は、転がるように駆け出すと、人並みを掻き分けアッシアの前に躍り出た。
 急いで敬礼するが、国の頂点に立つ人物から鋭い視線を向けられその指先は小刻みに震えている。例え国家元首の肩書きがなくとも、その逞しい身体と向き合い鋭い瞳に見詰められれば、誰しもが緊張を覚えるだろう。

「……状況説明を頼む」
「もっ、申し訳ありません! 只今全力で情報収集に、」
「違う。今現在の状況だ。この人だかりは何だ? 何か説明したのか」
「い、え、まだ正確な情報がなく、住民には黒獣の出現だけを、伝え――」

 しどろもどろになりながら警備兵が何とか説明すると、アッシアは左手を上げた。頬か、頭か、何処に一撃を喰らうかと、兵が目を瞑った瞬間。
 その掌は、左肩に優しく乗せられた。

「よくやった。俺が正式な報告をまとめるまで、悪いが住民を宥めてやってくれ」

 そう伝えると、アッシアはすぐ正門に向かい歩き始めた。

「黒獣に関しては討伐を確認している! 住民の負傷者も軽傷、命に別状はない! 現在警備兵が状況確認中だが、危機は既に去った! それだけは国家元首の名に掛けて誓う!」

 凛とした声は、炎へ注がれる水のようで。少しずつ、それでも確実に喧騒を鎮める。
 これが国を動かす人間の力か。誰かも知れぬ溜め息に、そんな感嘆が込められていた。言葉一つで人を奮い立たせ、諫める。国家元首でありながら黒獣討伐の最前線に立ち、勇ましく剣を振るうアッシアだからこそ成せる技だった。
 住民達はアッシアの後ろ姿を目で追いながら、言葉が紡がれる度、段々と笑顔を取り戻して行った。

「後、――俺が今日カトンに来たのは偶然だ。さっき報告受けてひっくり返った身で、お前達にあんまり偉そうなことは言えないがな」

 人懐っこそうな笑顔を住民に向け、数段明るい声色で笑って見せると、アッシアはその身を正門の向こうに消した。






 本部内を進むアッシアの後ろに、先程ふざけて見せた黒髪の青年が続く。

「相変わらず飴と鞭が上手いことで……」
「下らねぇ話してんな、報告」

 青年は警備兵から受け取った用紙を開くと、手慣れた様子で報告を開始した。

「えー、出現は外的要因。休眠状態に入った黒獣が何らかの原因により復活したようです。種類は恐らく植物型」
「植物型か…面倒だな」
「まぁ処理はイリさんが指示してるはずなんで、そちらに確認を。後、負傷した住民ですが、宿舎北棟に収容しています」
「……名目は?」
「商人の一人を取り逃がし、顔を目撃した住民に報復行為が及ばない為、ってことで」
「上出来だ。ギデ、お前は商人達の尋問を警備主任とやって来い」

 アッシアの指示に、ギデと呼ばれた青年は素直に従った。一礼するとすぐ踵を返し、警備主任が控える待機室に向かう。
 護衛兵と別れ、元帥閣下が一人何処へ向かうか等、一言も確認しないまま。







 どうして何もないのだろう。

 どれだけ強い朝日でも、どれだけ深い夜でも、全ての色を無くすことなんて不可能なのに、ここには何もなかった。
 白も黒も、それ以外の彩りも、何一つ存在していない。 これを無色透明と言うのか。何の配色にも属せないまま、ただ存在だけが辺りを漂う、この空間が。






 瞼を開ける感触があまりにも鮮明だった。
 瞳に映る光景は、まるで油絵を間近で見たかのように、全ての輪郭が朧気で。視界が明瞭となる前に、まず呼吸する自らの体に意識が向かった。
 胸の上下する感覚。ああ、自分は生きているのだと、ぼんやり自覚する。

「――黒獣……」

 知らず知らずの内に唇が動いていた。
 無意識に発したその言葉が、蓋を取り除いたのだろうか。ユキトの頭は一気に一番新しい記憶を再生し始めた。
 生まれ育った集落跡、サンザ・ニッセン、黒獣、赤い鎌、繋がれた手――

「やっと起きましたか……」

 抑揚のない呆れたような声が、完全に意識を覚醒させた。

「サっ、ン、ザ!!」

 ユキトは凄まじい勢いで上体を起こすと、何よりも先に、まず声の元を確認する。
 横たえられていたベッドのすぐ隣。簡素な木製の椅子に腰掛け、サンザはユキトに冷たい視線を送っていた。髪が解かれ、頭に包帯が巻かれているが、それ以外は至って普通。ユキトが気を失う直前とほぼ同じ姿だった。
 ユキトは、自分の胸から一気に力が抜けて行くのを感じた。サンザの声を聞いて緊張の余り呼吸が止まっていたようだ。
 だが、今はもう思う存分空気を取り込める。ああ大丈夫だ、彼は――

「生きてる!!」
「当たり前でしょう。死人が椅子に腰掛けますか」
「そのイラつく言い方出来るなら心配しなくてもいいみたいねっ!!」
「はい、どうぞお気遣いなく」



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