暴食の黒‐6



「なっ、――」

 疑問を言葉とする前に、黒獣が動いた。
 風を切る音と共に届く風圧。
 蔦で串刺しにされるのは身を翻す事で何とか防いだが、脇を通り過ぎた蔦はそのまま方向転換し凄まじい勢いで向かって来る。
 とっさに重心を踵に乗せた為、完全な直撃は回避出来た。それでも大人の胴体程の太さを持つ蔦がその身に打ち付けられれば堪え切れるはずもなく。サンザの体は易々と宙を舞い、大木の幹へと叩き付けられる。

「――っっ……!!」

 背中に鈍い痛みが広がる。
 マトモに受け身も取れないまま地面へと崩れ落ち、一度大きく咳き込んだ。それでもナイフを取り落とさず凌いだのは、戦闘を生業とする者の意地だろうか。

「サンザ!?」

 悲鳴にも似たユキトの叫び。甲高いそれに反応したのか、視界の隅で黒獣が首――と表現するしかない、黒い花弁と黒い茎の境――を音源に傾ける。
 サンザは頬を伝う血もロクに拭わないまま、痛む背を幹から離し駆け出した。

「走れ!!」

 今までにない切迫した声色が体を突き動したのだろうか。
 困惑の表情を浮かべながら、声にならない声を漏らしながら、それでもユキトはサンザに向かって足を踏み出した。
 黒獣の巨大な影が二人を覆う。その影はユラユラ忙しなく動きっ放し。まるでいっちょ前に獲物を品定めしているようで、サンザは顔をしかめた。
 頭からの出血は応急処置を施さずに止まる訳もなく、走り出して気付いたがどうやら肋骨も痛めたようだ。歯を食い縛れば口内に鉄臭さが広がる。
 絵に描いたような満身創痍。情けなくて自嘲すら浮かばない。何が起こったのか。何をされたのか。根元が何一つ理解出来ない非常事態でも、これから何をするべきかくらい、頭には既に浮かんでいた。

 手を伸ばす。
 目の前の少女に向かって。
 自身の意図を理解したのか、ユキトも土煙で薄汚れた両腕をサンザへと差し出した。
 影がグッと大きさを増した時。やっと、その思っていたよりずっと軽い体を抱き上げた。黒獣との距離はもう殆どない。とっさに体を丸めユキトを庇いながら、痛む体に鞭打ち何とか跳躍する。
 その直後何かの削れる低い音が背中を撫でた。十中八九、ついさっきまで自分が両の足で踏み締めていた地面を、黒獣の触手が削り取って行った音だろう。
 サンザはユキトを地面に下ろすと、振り向き様にナイフを投げた。狙いは花弁の中心。本来なら使い慣れた大鎌が貫くはずだったのに、頼みの綱である武器の何と脆弱な事か。
 頼りないながらもナイフは見事花弁の中心へ突き刺さり、途端、黒獣の絶叫が森中に木霊した。

「やっ、た!?」
「そんな訳――ないでしょう!!」

 ユキトを再び抱き上げると、サンザは商人達が横たわる一角とは逆方向に走り始める。

「ちょっ、と、大丈夫だから! 降ろして!」
「黙っていなさい耳障りです」
「アンタ怪我してんじゃない!」
「それでも貴女よりは速く走れます」

 そう言いながらも、サンザ自身自分がいつまで走れるか予想出来ていなかった。
今は痛みにのたうち回る黒獣もこのままではすぐ追撃を始めるだろう。
 仕留める為には再び鎌を「作る」しかないのだが、何故か上手く行かない。材料は右手に付着しているのに全く反応してくれず。どれだけ意識を集中させても、冷たい液体のままだ。
 こんな事今まで一度もなかった。
 別に誰かを庇いながら戦うのが初めてな訳でもない。怪我を負い追われる側となる事態だって嫌と言う程遭遇して来た。そのどちらの局面でも、いや、むしろもっと守る人数が多かったり敵が強大な時でも、一呼吸の間に大鎌を作り上げられたのに。
 ユキトに前髪を引っ張られながら思考する。
 「今まで」と「今回」と、何が違う?

「ねぇ!! せめて止血くらいさせてよ、血が――」

 サンザの思考を目覚めさせた物。それは、何の変哲もない少女の叫び声。その声が。言葉が。存在が。サンザから一気に体温と平静を奪って行く。
 何故今の今まで気付かなかったのだろう。「異質」は――この少女だ。
 サンザは足を止めた。
 途端、腕の中のユキトは、何処か安堵した表情を浮かべた。サンザが自分の訴えを聞き入れ、手当てを受ける気になった。そんなおめでたい勘違いでもしているのだろうか。だからこんな窮地の中笑顔を浮かべたのだろうか。
 瞳が細められ、射抜くような視線がユキトの黒い瞳に向けられる。
 それが最初、ユキトに記憶の赤い三日月を思い起こさせた瞳であると、サンザは知らないままでいた。







「貴女、何かしましたか」

 突然抱えられ、突然走り出し、突然止まり、突然問い掛けられた。困惑を抱くことすら精一杯なまま、それでもユキトはサンザから明らかな敵意を感じ取った。
 今まで聞いたどれよりも低く重いサンザの声は、冷え切った青緑の瞳と共にユキトを容赦なく揺さぶる。
 浮いた体を支える両腕から力が抜けて行き、このまま尻餅を付く前にと、ユキトは自ら地面へ降り立った。
 黒獣の雄叫びが空気を揺らす。確実な脅威に晒される中、二人はまるでそれが認識出来ないかのように、沈黙のまま向かい合った。

「は……? え、何の、話……?」
「貴女の声が聞こえた。消えて、と一言。その瞬間私の武器が消えた。鎌だけでなく、彩水(アヤミズ)の力も。支離滅裂な推測であることくらい私自身が一番よく分かっている。それでも、だからこそ、それしか、考えられない」

 サンザの頬を伝う血液は止め処なく。
 黒獣は今にも襲って来そうで。
 自分に、身を守る力なんかなくて。
 悠長に会話なんかしていないで、引きずってでも、最悪彼を置いてでも、この場から逃げ出さなければいけないのに。分かっているのに、何故かユキトの両足は地を蹴ろうとしなかった。
 「何かしましたか」と一言問われただけ。何故、そんな漠然とした質問されただけでこんなに怖くなるのだろう。
 取り返しの付かない事実に怯える時のような、大きく不快な鼓動と、動かない指先と、解けない視線。
 確かに自分は「消えて」と呟いた。だがそれはサンザの大鎌でなく、黒獣、いや、戦いの事実その物を――

「……あ……」

 ふと、結論に至った。
 「戦いの事実その物」と言うことは、まさか、そこにサンザの武器も含まれていた? あんな真紅の大鎌なんて非日常的な物。今まで平穏を生きて来たユキトにとっては、黒獣と変わらない戦いの象徴だ。
 無意識に、消えて欲しい物の中にそれを含めていたとしても不思議ではない。
 ……でも、だからと言って……それが何だ?
 ユキトが大鎌の消滅を願った所で、現実の物となるはずがない。終始冷静に振る舞っていたサンザが立てたとは到底思えない、確かに本人が言う通りの支離滅裂な仮説だった。
 一言、それだけだ。「何馬鹿なこと言ってる」と叱咤すればいい。サンザも自分の思考が理解出来ずにいるのだろう。眉を顰め、首を僅かに傾げている。
 だからきっと、ユキトがキッパリと冷静に否定すればこの会話は終わる。終えて、目の前の黒獣と向き合わなければならない。

「……私は、」

 一言、だけでいい。
 現実に戻る為、ユキトは口を開き、浮かぶままの言葉を音にした。

「私は、何をすればいいの?」




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