暴食の黒‐2


 馬車の近くにサンザがいる。
 来た道を戻れ・と命令された。
 とにかくこんな異常事態からは早々に距離を置かなければ。
 今なら全ての人間がサンザに意識を集中させている。細心の注意を払えば、見付かる事なくこの場を逃げ出せるはず――
 震える自らの膝を拳で叩き、何とか足を動かそうと試みる。茂みの向こうでは何やら叫び声が聞こえて来るがもう余計な想像はしない。
 しゃがみ込んだ姿勢のまま、ゆっくり、ゆっくり、後退ろうとした。
 ふと、視界に影が落ちる。確認するのとほぼ同時だった。

「ぐがっ!」
「え、う、わっ、ぎゃあああ!」

 何か分からないが、とにかく何かが倒れて来た。いや、正確には“ふっ飛んで来た”。
 ユキトはとっさに後ろへと飛び退き、間一髪ふっ飛んで来た何かしらの物体を避ける。
 無様に見事に背中から地面へと着地したのは、馬車から下りて来た男の一人。最早芸術とも思える綺麗な大の字姿で気絶している。
 あまりに突然の来襲。気が付けばユキトは立ち上がっていた。
 茂みが視界から消えたお陰で、現状を理解する。
 サンザの周りには、先程まで威勢良く銃を構えていた男達が転がっていた。
 呻き声一つしない。血痕も見当たらない。皆、まるで眠るように地へと伏している。
 ユキトがサンザ達から視線を逸らしていたのはほんの僅かな時間だ。
 その間に、武器を持った複数の男達をこうも完璧に気絶させたと言うのか。ユキトは混乱が治まらないままサンザへと視線を向けたが、当の本人は一人の男の胸倉を掴み、外套の裏を何やら探っている。だが小さく溜め息を吐いた後まるでゴミのように男を地面に放り投げた。
 パンパンと手袋に包まれた掌を打ち鳴らし、埃を払う。そこまでしてやっとユキトに向き合い言葉を発した。

「……まだいたんですか」

 全く心配の色を帯びない声色は、瞬く間にユキトの頭を沸騰させた。

「いいいいたわよっ!!」
「来た道を戻れと言ったはずですが……貴女、耳掃除しています? 耳垢が蓋でもしてるんじゃないですか」
「聞ーこーえーてーたっ!! でも茂みの向こうで男が武器構えてんのに動ける訳ないでしょ!? って言うか、そもそも、何なのよコイツ等!」
「……煩いですねぇ……子豚でも腹さえ膨れればもう少し静かになりますよ」
「こ、こぶ……!?」
「貴女の場合、雌豚ですか?ですが雌と認めて良いか分からない外見ですからねぇ」
「ハアァァァ!?」

 何て、何て不遜な態度なのだろうか。
 ユキトは立ち入り禁止になっている訳でもない森にたまたま踏み入り、巻き込まれただけだと言うのに。
 状況が理解出来ず茂みに留まっていた事を雌豚呼ばわりで責められるなんて滅茶苦茶過ぎる。此処まで言われて、大人しく引き下がるような柄ではない。
 何と反論してやろうか。とにかく息継ぎなしで捲くし立てられるよう、ユキトは思い切り息を吸い込んだ。
 すると、今まで眠たげに伏せられていたサンザの目が大きく見開かれた。まさか言い返して来ると思っていなかったのだろうか。なら丁度いい、一泡吹かせてやる。

 ――そう意気込んだはずなのに。
 肺へと溜められた空気は、結局口からゆるゆると漏れ出してしまった。
 ユキトは漏れ出す空気に乗せ、かろうじて「え、」とだけ口にした。それ以外、何も言葉が浮かばなかった。
 サンザが勢い良く振り向く。
 その視線は間違いなくユキトと同じ方向に向けられている。サンザが乗り込んだ物よりもう一回り小さい二台目の馬車。その荷台の暗幕が捲り上げられ、中から、何かが覗いていた。
 何か。恐らく、人間だ。人間の“はず”。
 サンザの足元で眠る男達の物とよく似た外套が、暗幕の下からはみ出したまま左右に動いている。
 数秒の沈黙。ユキトに辛辣な言葉を浴びせていたサンザも、馬車を凝視したまま何一つ口にしない。外套は勝手に動いたりしない。だから、動いているならば、人がそれを纏っているはず。
 簡単な推測なのに、ただただ左右に動き続ける外套を見ていると不安になって来る。



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