朝霧の森‐3


 遠い遠い昔、父に手を引かれる帰り道で見かけた、空にポッカリ浮かぶ不気味な赤い三日月。
 鋭く光り、妖しく細められたサンザの双眼に、ユキトは記憶の三日月を見た。

 背中の中心から、湖面を走る波紋のように悪寒が広がり、息を飲もうとしたその刹那、ユキトの体は宙に浮いた。
 先程のように片足が空を切ったのではない。体全体が、サンザの大きな左手に頭を思い切り掴まれたせいで、勢い良く後ろに傾いてしまったのだ。
 あまりに突然の理不尽。受け身も取れないまま、ユキトは背後の茂みへとその身を沈めた。
 小さな枝や葉が剥き出しの腕を撫でる。背中には土の感触。真っ先に打ち付けられた肩甲骨の軋む音が鼓膜を揺らす。
 視界の端で、盛大にひっくり返る桶が見えた。

「なっ、ぐ!」

 サンザはユキトに覆い被さると、何か発しようとした口に自身の掌を貼り付けた。
ユキトは目をあらん限りまで見開き、サンザの冷たい瞳を見詰める。

「――逆らうな」

 あまりに簡潔で、あまりに傲慢で、それなのに、何一つ反論出来ない。
 ――口を塞がれているから。
 確かに物理的な原因はそこにある。だが、例え唇が自由に動く状態にあろうとも、ユキトは何も口に出来なかっただろう。
 自分を見下ろすサンザの手に、赤い液体の滴るナイフが握られていたのだから。






 あるアパートの階段を、一人の青年が上っていた。
 温かみのある淡い狐色の髪。レンズが真っ黒に塗り潰された眼鏡のせいで、瞳の色は確認出来ない。
奇妙な出で立ちだが、方々の旅人が集うカトンにおいてはそれ程目立たないようだ。
 その証拠に、擦れ違うカトンの住人は大した反応も示さず、平然と青年の隣を通り過ぎて行った。
 爽やかで何処か冷たい朝の空気が、忙しなく働く人々によって少しずつ暖められる。白んだ東の空が真っ青な晴天へ、そんな移り変わりがそのまま街に投影されたようで。
 青年は言い知れぬ高揚感に急かされ足を速めた。

「ちょっとアンタ!」

 大声に呼び止められた青年は、外れそうなくらいの勢いで肩を跳ね上がらせる。
 体ごと振り向けばそこには中年の女性。買い物帰りなのか、逞しい両腕に沢山の荷物を抱えている。

「はっ、はい、俺のコト!?」
「そうだよアンタだよ。その部屋になんか用かい」
「……、……いや〜ちょっと昨日うちの連れが酒場で悪酔いしちゃっテ。店員さんに迷惑掛けたから謝りに来たんでス」
「あらそうかい、だったら出直しな。昼前まで帰って来ないよ。朝だって随分急いだ様子で飛び出してったんだからねぇ」

 青年は、ただただ笑顔であるよう、平静を保つよう努めた。
 そして心の中で思う存分のたうち回る。「何で部屋で待ってないノぉぉぉ!?」と絶叫しながら。

「えー、っと……何処に、出掛け……」
「悪いけど、わたしゃ仮にもここの大家だ。住民のコトを見ず知らずの人間にベラベラ喋る訳にはいかないねぇ」

 そう言って不敵な笑みを浮かべる大家に向かって、この背にあるナイフを突き付けるコトが出来ればどれだけ楽か。
 青年の脳裏に荒っぽい解決策が一つ浮かぶが、すぐ様我に帰り却下した。
 一般人に目的を明かしてはならない。そう忠告する上司の瞳は全く笑っていなかった。もし、自分がここで身分を明かしてしまえば、どうなるか。
 一度大きく身震いした青年の頬を汗が伝う。ここは穏便かつ内密にコトを進めるしかないようだ。
 まずは、この部屋の住人であるユキト・ペネループの行き先が“あの森”でないか。それを突き止めなければ。
 青年は未だ疑いの目を向けてくる大家に軽く会釈し、笑顔のまま階段を下り、アパートを出ると、あらん限りの速度で走り始めた。

「サンザ〜鉢合わせたらちゃんと処分してヨ……!」

 無愛想な同僚の顔を思い浮かべながら、青年はひたすら朝の街を駆けた。


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