朝霧の森‐2
小さな鐘の音。
普段は自宅のベッドでこの音色を耳にするが、町の外ではか細い音がかろうじて届くだけ。
ユキトはその鐘の音で時間の経過を実感しながら、たっぷりと森の空気を吸い込んだ。手には小さな木製の桶。その中には透き通る水が湛えられている。
「はー……やっぱり遠い……」
桶に水を満たした所で、その重さは普段酒樽や酒瓶を運んでいるユキトにとってそれ程辛い物ではなかった。
ただ、何分目指す場所が遠いのだ。
ユキトが向かっているのは、町を取り囲むように鬱蒼と生い茂った森、の、更にその奥にある。
今となっては誰も立ち寄らない“元”集落。そこが、朝早く起きてまで向かう場所だった。
「早く戻らないと間に合わないなぁ……馬あれば楽だったんだけどー!」
誰に向けた訳でもない独り言を呟きつつ、とにかく止まる訳にはいかないと歩を進めた。
逞しい木々を照らす陽光。瑞々しい葉を伝う朝露。朝靄立ち込める空へ飛び立つ、鳥達の羽音。
当たり前の風景を楽しみながら歩く内に、少しずつ周囲の景色が変わる。ある程度草が刈られ道と分かるようになっていた物が、雑草の生い茂る獣道となって来たのだ。月に一度程度ではあるが、それでも十年通い続けた道のり。
自然と足が早まり、目的地の風景がくっきりと頭に浮かんで来る。
先週雷に撃たれその身を焼かれたサフィーラの木。それが右手に現れれば、目指す場所はもうすぐそこ。
さあ、後一息。
ユキトは足に力を込めた。走る速度が上がり、あっと言う間に目的地へ辿り着く。
そんなありきたりな予想は、突如生じた違和感を以て破られた。
前に踏み出されるはずだった右足が宙に浮いたまま固まる。首元に僅かな圧迫感、後頭部に目の付いている種族でないユキトにも、襟元を後ろから引っ張られたコトくらいすぐ理解出来た。
「なっ、何!?」
首だけで振り返れば視界は黒。視線を上にずらせば、そこには
「――サン、ザ……ニッセン……?」
濃い灰色の長髪、青緑の瞳、褐色の肌。
昨日酒場でほんの少し話しただけでも、こんな特徴的な容姿を一晩で忘れられるはずがない。
だが、昨日とは明らかに様子が違う。気だるげだった瞳には焦りとも怒りとも取れない怒りが浮かび、瞳と平行だった眉は吊り上がっていた。
「えっ、ちょっ、何どうしたの!?」
「……」
「あれ……何か食べてる?」
「……」
「あ、うん……いいよ飲み込んでからで……」
右手でユキトの首根っこを掴み上げ、左手で顔の下半分を覆っているが、明らかに手の下の口は食べ物を含んだ様子で忙しなく動いている。
そのまま左手で数度胸を叩くと、一度大きく咳払いした。
「ゲホッ、――っ、……」
「え、大丈夫? 水飲む?」
「何故此処にいるんですか!」
ようやく襟元から手を離したかと思えば、いきなりの怒号。
酔っ払いの叫び声よりは小さな音量だったが、曇りなくはっきりと発せられるそれは、また違った威圧感と緊迫感を含んでいた。
だが、そうやって怒鳴られても、ユキトには意味が理解出来なかった。
確かにこの辺りは、あの痛ましい事件のせいか近寄る人間なんてほとんどいない。とは言っても、軍に封鎖されている訳でも、ましてや彼等の所有地でもないのだ。
ここは歴とした森の一部。誰がいつどうやって踏み入ろうが、文句を言われる筋合いはない。いきなり服を掴まれロクな会話もないまま怒鳴られた現実に、ユキトは沸々と怒りを覚え始めた。
「何故、って……私用よ、私用! 入っちゃいけないなんて決まりはないでしょう?」
十中八九、正論のはずだった。
だがサンザは一層険しい表情を浮かべ、とうとう頭を抱えてしまった。
「……手紙は読まなかったんですか……」
「え、手紙? ……読んだわよ」
「嘘を付かないで下さい、読んだならこんな所にいる訳――、」
途端、サンザの瞳に光が走った。
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