朝霧の森‐1


 とにかく窓を思い切り開ける。そして、とにかく思い切り飛び降りる。
 冷えた外気が肌を撫でるのと同時、凛々しい日光が視界を埋めた。

「よ、っと!」

 眩い光に思わず目を細めながらも、ユキトはあっさりと地面に着地した。
 両足に伝わる石畳の堅い感触と軽い痺れ。一度深く膝を曲げると、そのまま勢い良く足を伸ばした。痺れはその一動作で簡単に消える。
 さっきまでいた部屋が頭上に見え、開け放たれたままの窓がキィキィと音を立てて揺れていた。

「ユキト! あんたまた窓から!」
「ゴメンゴメン、悪いけど窓閉めといてー」

 朝の爽やかな空気を震わせる怒声が、ユキトに浴びせられる。
 ユキトの部屋の真下に住む大家は、肝っ玉母さんを体現するような気っ風の良い女性だが、その分何事にも容赦がなくとにかく声が大きかった。
 ユキトのはしたない行動を目撃する度、窓の一つでも破壊出来そうな怒鳴り声がプレゼントされる。
それは最早恒例行事であり、近所には怒鳴り声を目覚ましにする者もいるくらいだ。
 ユキトと大家の一悶着で目覚めた向かいの子供が、二階の窓を開けた。寝ぼけ眼を擦りながら、眼下のユキトに手を振る。

「おはよう〜……」
「おはよ! ヨダレ付いてるわよ早く顔洗って来なさい」
「次やったら追い出すよ、聞いてんのかいユキト!」
「はいはい気を付けまーす」

 そう脅されるのも何度目か。実際追い出されるコトなどなかったから、こうして今も朝の日課を続けられている。

「そう言えば今日は朝から仕事かい、昨日も遅くまで働いてたろう?」

 一通り怒鳴り満足したのか、先程より表情の柔らかくなった大家がユキトに尋ねる。
 確かに昨日はしつこい酔っ払いのせいで帰るのが遅くなった。もう少し手間取っていたら帰宅せずシュルトに泊まっていたかもしれない。そんな状態だったからか、マスターに明日は夜だけ手伝いに来てくれれば良いと言われていた。
 元々仕事のつもりだったので予定はなし。
 いつもなら陽がもっと高く昇るまで眠り体力を回復させる所なのだが。今回はタイミングが良過ぎた。
 手紙の届いた翌日が休みとなればやるコトは一つしかない。

「仕事よ、一番大切な!」






 旅に慣れてしまったせいだろうか。壁があり、屋根があり、体を横たえるベッドがある、そんな普通の宿では逆に眠りにくかった。
 人間の持つべき三大欲求には大して興味がないので、寝付きが悪いコトを辛いとも思わない。だが体は心理状態を無視して疲労を蓄積する物だ。
 何とか眠ろうとベッドに身を横たえたのは、空が白み始めた夜明け前。浅い眠りから覚め、体を起こしたのも夜明け前。微かに夜空の白みが強くなっている程度だった。
 窓を開け、サンザは眼下に広がる街並みを見下ろした。
 上司から聞いていた通りなかなか平和な街のようだ。多少質の悪そうな輩もいたが、特に絡まれもしなかった。
 静かな朝の街をしばらく眺めた後、たった一つの荷物である皮袋を担ぎ上げた。ふとサイドテーブルの上に置かれたバスケットが目に入り、ああ、そう言えば、と独りごちる。

 昨日手紙を届けたユキト・ペネループから半ば無理矢理押し付けられた物だ。
 会話を思い出しながらバスケットの中身を覗き込むと、確かにキッシュが二つ並べられている。中身は……何だったろうか。早口で説明された為よく覚えていない。
 基本的に朝食を飲み物だけで済ませるサンザは、バスケットを前にしばらく考え込んだ。
 昨晩手渡して来た本人が言っていたように誰かへ押し付けてしまおうか。
 一瞬その考えも浮かんだが、そもそも誰に押し付ければ良いのか。喜んで二つ一遍に頬張りそうな仕事仲間はまだこの街に到着していない。
 ハァ、と、浅い溜め息を吐き、バスケットの持ち手を乱暴に掴んだ。
 仕事場へ着く頃には二つ食べ切れているだろうか。皮袋を肩に掛け、空いた手でバスケットからキッシュを一つ取り出した。


[ 5/65 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -