第二話「迷える手駒‐3」
「犬、水溜まり、コーヒー、……きっ、狐っ、」
「僕の顔見て言ったでしょ」
「ちっ、違っ、――あっ、分かったミシン!」
「当てずっぽう止めてね。分かんないなら分かんないって言って?」
「全っ然わかんねぇです!」
机上に広げられた無数のカードを、ジャンが一つの山にまとめて行く。
特にすることもないフェルディオは、その動作をじっと眺めていた。この部屋に入ってからもう何分経っただろうか。理由を考えることは早々に放棄している。
最初は、パソコンの画面に次々映し出される三桁の数字を、暗算で足していった。その次は、十枚のカードを並べられ、三十秒で覚えられるだけ覚えるように言われた。繰り返す内に、十五枚、二十枚と枚数が増えて行く。
もちろんどれも結果は散々だ。現に今は、十一枚目のカードすら思い出せず勘に頼った。他にも、明らかに知能を計る為のテストが続いている。
知能テストは、入学時と入隊時に散々受けたはず。今更個人で受ける必要が何処にある。放棄したはずの疑問が浮かぶだけ浮かんで、どうしようもないまま掻き消えた。
「フェルディオくん、チェスは出来る?」
そう言いながら、ジャンは既にカードを片付け、チェスボードを机に広げている。
「は、い……強くはないですけど」
「じゃ、次はコレね」
キング。クイーン。ナイト。何も確認がないままフェルディオ側に白い駒が置かれ、ジャンは黒い駒をマスに並べていく。
自分が先手でいいのだろうか。とりあえず、フェルディオも自陣に駒を配置した。
「何か賭ける訳じゃないから、気楽にね」
はぁ。思わず零れた返事を悔いたが、ジャンは大して気にした様子もない。それ所か瞳を更に細め、何処か楽しそうに頬杖を突いている。
直感だが、きっとジャンは強い。根拠はなくとも確信出来る。言葉にせずとも自信が、行動を起こさずとも経験が、底の見えない笑顔から伝わって来た。
「……謙遜抜きにして、マジで強くないですよ俺」
念を押した上で、白のポーンに手を伸ばした。
想像通り、ジャンの腕は見事だった。単に自分が弱いだけかもしれないが、せっかくいい手を出したと思っても、毎回あっさりその裏をかかれた。決して序盤でゲームを終わらせず、あえて攻め切らず引き付け、こちらが手を出し尽くすよう仕向けているようだ。
「リッシュさん頭の中どうなってんですか……」
「清廉潔白、初夏の高原を彷彿とさせる爽やかな脳内だよ」
「嘘だ……爛れたパソコンみたいな思考回路に決まって、」
「チェックメイト」
「ひぎゃっ!」
あっさりとキングを奪われ、項垂れた。これで三連敗。もうそろそろ終わりにして欲しいのだが、ジャンは笑顔のまま駒を並べ直す。
「でも、頭は回ってるみたいだね」
「へ?」
「六日前あんなことがあったからさ。初戦であの騒ぎでしょ? 動揺が残ってなくて良かったよ」
六日前。敵に奇襲され、アルベルトに救われたあの戦闘か。
もう六日経っていたとは。何だか実感がない。恐らくあれは、一生記憶に残る程強烈な出来事だろうに。
実感がない?
浮かぶ客観的な推察に、指先へ痺れが走った。見れるはずもないのに、自らの瞳孔が開いた気がして、掴んだナイトより鮮やかに光を反射する。
「いや、はい、直後はそりゃパニックでしたけど、今はさすがに……」
「うんうん、いいことだね。人間、切り替えは大事だよ」
切り替え。そうか、切り替えだ。実感がないんじゃなく、記憶が遠ざかって、冷静に受け止められるようになっただけだ。
ジャンから与えられた逃げ道に、跳ね上がった心拍数が一気に落ち着く。落ち着く、と言うより、動揺の回路が遮断されたようだ。
さすが一部隊の副隊長。的確に人の内面を見抜き、発する言葉にも説得力がある。
「突然のことだったからさ、僕にもちゃんと情報入って来てなくて。良かったらどんな感じだったか教えてくれない?」
「どんな感じ……?」
「やだなぁ緊張しないでよ。それこそ覚えてること話してくれればいいだけだって。聴取じゃないんだからさ」
覚えていることを、と言われても、自分の記憶は曖昧な物だ。同行していたフライトリーダーに聞いた方が、より確実な情報が手に入るだろうに。
アルベルトと言いジャンと言い、隅々まで調査しないと気が済まない性分なのだろうか。
「俺で良ければ、何でも話しますけど」
促されるまま、六日前の空中戦について話した。
編隊を組んで飛行中、突然現れた所属不明の敵機に襲撃された。フライトリーダーからの指示を受け、迎撃行動に入った。どう飛んだか、どう攻撃されたか。とにかく覚えていることを、駒を動かしながら、話す。
蘇るのは青と銀。眼下で入り乱れるのは白と黒。一色も交わらない光景に、奇妙な感覚を覚えた。それでも唇は淀みなく動く。前日までの聴取ではない、ただ残る記憶を話せばいいだけだ。簡単なはず。事実、何も苦痛など感じない。
「敵機の後ろを取ったんですけど、狙いが甘かったみたいで、ミサイルは回避されてしまいました」
「相手はフレアでも使ったの?」
「分からないです、着弾を確認する前にアラート音が鳴ったんで、そっちに意識を持って行かれました」
「ロックオンされたんだ」
「はい。発射される前にララインサル隊長が撃墜してくれて、間一髪助かりましたけど」
ジャンは相槌を打ちながら、根気強くフェルディオの話を聞いてくれた。その間にも、ゲームはどんどん進んで行く。
ふと、今自分が何の駒を掴んでいるのか失念した。これは今回も負けだ。こんな適当な進め方で、ジャンに勝てるはずがない。ちょうど話も終わる所だし、一息付こう。
瞼を擦り、背もたれに体重をかけた。一瞬だけ視線をチェスボードに落とし、すぐにジャンへと移動させる。
――これで全部です。
予定された終止符は、結局言葉にならなかった。
「ホンっト、ドラマの感想でも聞いてるみたい」
視線が攪乱される。聴覚も、今何に反応しているのか分からなかった。
視界の中を白と黒が舞い、固い衝突音を立てながら、その向こうにゾッとする程甘い声が聞こえる。
キング、クイーン、ナイト、立派な名を与えられた駒が、ゴミのように惨めな姿で床を転がった。いくつかは壁まで飛び、その行方すら追えない。チェスボードだけは、何とか机の端に引っかかっている。
呆然としたままフェルディオは唇を震わせた。何が起こったか。理解出来るはずなのに、完結を本能が拒絶する。
「リッシュ、副隊長……?」
卓上のチェスボードと駒を薙ぎ払い、床に散乱させておきながら、ジャンは今日一番の穏やかな笑顔を見せた。
身を乗り出し、蒼白となったフェルディオの顔を覗き込む。細められていた瞳は、はっきりと開いていた。緑の光を帯びた、暖かな茶色の瞳。褪せた茶髪と対照的なそれは、形も、大きさも、湛える色も、全て柔らかくて仕方ないのに。
見詰められる程、内側へと敵意が流れ込んで来る。どうすればこんな目が出来るようになるんだ。逃れようのない恐怖に、自然と汗が噴き出す。
「ジャンでいいよ? これから、長い付き合いになりそうだしねぇ?」
生え際を梳くように、細い指が髪へと差し込まれる。暖かい人の手。幼い頃母にされたのと同じ、あやすような動き。なのに、滑らされた箇所が次々と鳥肌を立てて行く。
言葉の意味も理解出来ないまま。潜む圧力に、抵抗も出来ないまま。
床を転がるポーンの駒が、爪先に当たり、止まった。
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