第四話「傲慢な線引き‐6」


 ぐずる子供をあやすのは嫌いじゃない。
 その後笑うと分かっているから。希望を取り戻し、無邪気に微笑むと、確信しているから。報酬を思えば労働も苦ではない。より鮮明に思い描けるご褒美なら、尚更。
 指で掬った柔らかい髪を、そっと背に流す。微かな衣擦れの音。今頃青い軍服の上を、美しい若葉のような黄緑が滑っているのだろう。太陽の下でもっと輝くはずのそれは、薄暗い部屋の中で、色を閉じ込めたままだ。

「おかえり」

 いつもの彼女なら、全身で喜びを表現し突進して来る。こちらから声を掛けずとも、ただいま。あのね。聞いて、と。離れていた日々の報告が、弾む声で紡がれた。当たり前の光景だった。だが、この時――定期検診から戻った後だけは、全く逆の状態になってしまう。
 覚束ない足取りで歩く背中を見付け、すぐに駆け寄った。返答を期待しないまま、何度もおかえりと繰り返す。引き寄せた小さな体は震えもしない。ただただ身を委ね、立ち尽くしている。

「ねえ、聞いた? 新しい子が入隊したんだよ。第一分隊で初めての後輩だね、おめでとう、ね、早く会いに行こう。面白い子でさ、絶対好きになるよ」

 頭に左手を乗せ、右手で何度も背を擦る。名を呼べば、一度、頬が胸元にすり寄せられた。暖かい柔らかさが、分厚い防刃スーツに染み込んで来る。
 十数回目の囁きを、少し間を置いてから発した。そうしてやっと、細い腕が背中に回される。縋るように軍服を掴む掌が、彼女の願望を如実に表していて、ジャンはようやくいつもの言葉を口に出来た。

「君は第一分隊のパイロットだよ。ただのパイロット。普通の、何処にでもいる、ただの軍人。みんな知ってることじゃない。ね?」

 同意を求めれば、答えるように再度頬がすり寄せられる。添えていた右手で、今度は背を軽く叩いた。一定のリズムで何度も触れれば、消え入るような声で一度だけ、「ただいま」と搾り出す。
 せっかく落ち着いて来たのに。少女の体に腕を強く絡め、顎は頭の上に乗せる。彼女が顔を上げられないように。凪いで来たその心に、憎悪に満ちた瞳が、揺らぎを与えないように。

「おかえり、フアナちゃん」

 彼の顔が浮かぶ。
 彼と同じくらいあどけなさの残る、“彼”が。








 IAFLYS隊員が纏う軍服より、一般空軍のそれは暗い青をしている。基地内でその青を見かければ、大抵のIAFLYS隊員は警戒した。一般空軍内には、IAFLYS自体をよく思っていない人物が多い。
 瞳を細め、遠ざかって行く広い背中を観察する。だが、それが誰なのか確認する前に、ビセンテは廊下の端へと飛び退いた。

「あれっ、なーんだ酷い、避けるなんて」
「ジャンか……貴様何処をほっつき歩いている」
「フアナちゃんが帰って来たの。だから」

 腕を大きく広げ、飛び込んで来いと言わんばかりに指を動かす。副隊長でありながら、何と言う軽薄な態度か。ビセンテはジャンを無視し、帰って来たと言う同僚の顔を思い浮かべた。

「……いつも通りか」
「今回はちょっと強めだったかな? もう部屋に戻ったよ。会ったらいつも通りにしてあげてね」

 優しくしろ、でなく、いつも通りにと指示する辺り手慣れている。
 研究所から戻り不安定になっている彼女には、そう接するのが得策だ。素直に頷いたビセンテを見て、ジャンは壁に右肩を押し当てた。側頭部も預け、完全に壁へ体重を預ける。

「いつ見たって可哀想」
「同情してどうなる」
「落ち着くの、僕が。無視は出来ないもの。ビセンテちゃんだってあの子見てて辛くない? 普通だよねって、必死に確認して来るの。IAFLYSの特異細胞保持者が」

 普通な訳ない。特異な細胞を持ち、特別と名の付く部隊に所属した、国防軍の軍人。何処を取っても、大多数の中には馴染めないだろう。
 それでも彼女はただの人でありたいと願う。いっそ、愚かなまでに。それに付き合い、毎度問い掛けに肯定を返すこの男も、大概常識から逸脱している。
 普通なんて知らない。生まれた時から違いを自覚していた。あまりに当然だったから、僻む気にもならない。何を羨めと言うのだろう、手に入るはずもないと、分かり切っているのに。

「フアナ自身も理解しているはずだ」
「だろうね。いっそ頭が回らない子だったら、本人も楽だったんだろうけど。普通なんて望んだってどうにかなる物じゃない」

 壁に体を凭れさせたまま項垂れるジャンは、悲壮さでなく諦めを滲ませていた。

「フェルディオくんもああなるのかなぁ……」

 零れた呟きに目を見開く。何故ここであの新入隊員の名前を出す。疑問を形にせずとも、ジャンは勝手に話を続けた。

「あの子今までは一般人だったけど、もうどっぷりこっち側だしね」

 ジャックファルとの会話を聞かれていたのか。一度跳ねた心臓は、すぐに刻み慣れた速度を取り戻す。
 聞かれていた所で何だ。自分は八つ当たりも嫉妬もしていない。あれはただの言いがかりで、例え誤解されたとしても、相手はジャンだ。こちらから弁明せずとも自ら誤りに気付くだろう。

「ビセンテちゃんは普通に憧れる?」
「下らないな」
「普通は悪いことだと思う?」
「しつこいぞ、いい加減にしろ!」

 訂正しなければ。この男が相手だからこそ、誤解は早急に解くべきだった。ジャン・ル・リッシュは、面白そうな匂いを感じれば、容赦なく気付かないフリを続ける人間だ。
 鬱陶しい者も、まどろっこしい物も嫌いだ。ならば、あのヘラヘラとこちらへ走って来る男は、一体何処へ転ぶ。

「ビセンテさんっ、スイマセン面会終わりました!」
「フェルディオ・シスターナ!!」
「はひぃっ!?」

 ジャンを追い抜き、大股でフェルディオへ向かう。緩んでいた口元は一気に硬直し、まだ何も言っていないのに頭を庇った。がら空きになった鳩尾へ肘をねじ込みたくなるが、何とか堪える。



[ 25/71 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -