いにしえと貴方‐5


「所長!」
「あー、そう言やお前、特待生だったのかよ」

 ヴァルハの隣に並んだ所で、ヴィレンがのたまう。余りに突然で、続けようとしていた感謝の言葉が、「え」の一言に奪われてしまった。

「……入室許可が下りた学生の情報は、伝えていたはずだが」
「うちに来るって決まった訳でもねぇんだろ、中途半端な学生の情報なんざ覚えるだけ無駄無駄」

 明らかに眉を顰めたヴァルハの迫力は、龍と虎が同時に咆哮したようだった。だのにヴィレンは全く堪えた様子もなく、更に失礼極まりない発言を重ねた。
 覚える必要がない。確かにそうだ、自分はまだまだ未熟者で、ヴィレンの記憶に残る権利などないに等しい。だが、ああ、不思議な物だ。納得しているのに不満が芽生える。
 この人が選定する知識のなかに、自分は残らないのか。真一文字に口を結ぶと、言い様のない悔しさが込み上げて来た。

「なあ、お前名前は?」

 問われ、顔を上げる。全く何でもない様子で、ヴィレンは片目でこちらを見据えていた。
 冬の水面が、本当にこの色か私は知らない。それでも、美しく思った今だけは、ずっと知っている。

 名前も知らない異国の貴方。
 やっぱり私は、貴方を知りたい。

「ご不要なのでは?」
「あ?」

 ヴィレンは相変わらず最悪な人相をしていたが、もうどうとでもなれと思った。ヴァルハも怪訝そうな顔をしていたが、それももうどうにでもなれと思った。

「今仰ったではないですか、ヴィレン所長、学生の情報など覚えるだけ無駄だと」
「何だあ? 拗ねてんのか、面倒臭ぇなお前」
「所長、それが、私の持つ物です。不必要だろうと何だろうと、気が付けば知りたくなっている物が、私の知識欲です!」

 神に与えられた欲が人を人とした。
 パンがあれば飢えはしない。一人の人と子を成せば潰えない。日の落ちる間眠れば、死にはしない。それでも求めた。もっと沢山、多くの欲を。
 この本はお前に何をくれる? ついさっきの問いに、今は別な答えが用意出来る。知識その物なんて小さな収穫ではない。欲その物が、あの紙切れの集まりに掻き立てられる。
 理由なんて考えている暇はない。知りたくて、触れて、嬉しくて、また求める。それがどれだけ陳腐な物だったとしても。

「……成る程な。不要でも知りたくなる……確かにお前の言うことももっともだ」

 てっきり反論して来ると思っていたが、意外にもヴィレンは噛み締めるように一度頷いてくれた。
 まさか。自分の意見に、納得してくれたのだろうか。損得で測れない純粋な知識欲を、ヴィレンも思い出してくれたのだろうか。開き直りから生まれた言葉が、届いたと言うのか。高揚感に包まれれば、悔しさは完全に消え去る。
 自分から名乗り、非礼を詫びよう。その瞬間だった。

「だがな、質問した側が正解を知ってる場合もあるんだよ。出直して来い、ニノイ・ユヘルストン」

 指差された己の胸元で揺れる、名前が記された身分証明書の存在を思い出し、ニノイは雄鶏も逃げ出す程の金切り声を上げた。





 いつだって知りたいと望んでいた。
 無知は、空々しくて嫌いだった。
 貴方を知ることが私の力になると、純粋に信じ切っていた。

 名前も、顔も、何一つ本当のことは知れない貴方。その頬を打った凍てつくような雨風の温度も、涙を拭った愛しい指先の柔らかさも、終わりの時に宿した懺悔の色も。私は結局知らないままだった。
 春の草原を歩きたい。夏の熱を肌で受けたい。秋の色彩に瞳を震わせ、冬の孤独に怯えたかった。
 神より賜った欲が望みとなる。触れることすら叶わない、哀れな先人の思いに、寄り添う為の根源を与えた。それは確かに、傲慢の入り口だった。

 今になって思う。私は、貴方の軌跡を辿れども、その思いを得ようとするべきではなかったのだと。
 今になって、やっと思う。



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