いにしえと貴方‐3


 新しい知を得られず単調な毎日に錆び付いて行く。そんな生は受け入れられなかった。
 膝に手を付き、ヴィレンが重い腰を上げる。大男と言う程でもないが、充分な身長と逞しい体付きだ。やっぱり、どう転んでも研究所所長には見えない。

「ご立派なこった。精々頑張ってくれ」

 褒めそやされるなどと、傲っていた訳ではない。だがヴィレンの笑顔が凍ったのを肌で感じ、突き放すような言葉に、失礼な発言があったのかと指先が震える。
 固い木の床を靴底が蹴る音。自分の足を包む薄い物とは違う、重厚な底板の靴だ。足音が、時を刻む振り子のように、一定の拍子で貯蔵室に響き渡る。

「あ、あの……失礼致しました、私、浮かれてしまって、失礼を……」

 恐る恐る謝罪しても、すぐそこまで近付いて来たヴィレンは平然とした様子だった。左目は眼帯によって覆われ、そこに繋がる紐が右目の瞼まで隠してしまっているせいで、ただでさえ悪い目付きが余計凶悪さを増している。
 髪も瞳も、冬の湖のようだと思った。水泡が昇る。曇天を映した水面に。そこにあるのは、ただのしなる瞳と、歪む光だけなのに。

「何が?」
「え、ですから、……失礼を」
「ただ“ご立派なこった”っつっただけだろーが。一々反応してんじゃねぇ」

 さっきまで向かっていた机に本が一冊置かれた。それが散々探し回っていた物の一つだと気付いたのは、ずっと後のことだ。

「知識欲なんざ俺には最低限しか備わってねぇ。だからお前はご立派だって。褒め言葉だろ?」
「少し……違和感を感じたもので、申し訳御座いません」
「違和感? 仮にも研究所の所長が、知識欲を最優先事項に持って来てねぇことがか?」
「い、いえっそのようなことは、えぇっと!」

 嘘だ。違和感の正体は、今見事に言い当てられた。
 誰も彼もが自分と同じ価値観を持っているなんて、そんな愚かな考えではなく、ただ何処かに通じる物があるかと期待していただけだ。
 ヴィレン・ザディネルは、その若さで皇帝陛下から所長に任命され、文武両道を体現する人物だと聞かされていた。だから、ああ、でもこれこそが価値観の押し付けだろうか。
 言葉を吐く程、思考を巡らせる程、己の未熟さが浮き彫りになる。

「この本はお前に何をくれる?」

 掲げられたのは、ラスト史記五編「霧の森」だ。古代ラスド神国が他の民族を討伐し、周辺地域を平定するまでの記録。ラスド言語がウラティーバ言語に発展するんだ重要なーー
 違う。求められている返答はこんな当然ではないと、本能的に悟った。

「知識、です。私がどう転んでも得ることの出来ない太古の記録を、数百数千の文字が綴ってくれている。決して交わらない古(いにしえ)の人々が、何を思い何に生きたか、教えてくれる」

 ヴィレンはラスト史記を机上に戻し、またつまらなさそうな顔で天井を仰いだ。一つだけ晒された彼の瞳は、自分が瞬きする間に幾つの言葉をかき集めるのだろう。

「その知識が何か与えてくれるか? 少なくとも俺はお前より本を読んでるが、それだけで腹が膨れたこともよく眠れたことも女を抱けたこともねぇな」
「だっ、ばっっ!!」
「落ちた。拾えよ。知識なんざ、自分に必要な、扱える分だけ得られりゃそれでいい。過去の誰かに思いを馳せる必要なんざねぇ。研究で成果を上げてる限り国が衣食住保証してくれるからここにいる。それだけだ」

 馴染みのない言葉に動揺し、跳ね上げた手が本の山を崩す。這いつくばるようにして、床に落ちた分を集めている間も、ヴィレンは淡々と言葉を続けた。
 非常に、合理的だ。食欲、性欲、睡眠欲、生から切り離せないそれ等を満たす為の手段。所長に与えられる賃金は相当な物だろうし、肩書きは世の女性達から見ればさぞかし魅力的だろう。
 自分にとっては高潔で容易に触れ難い歴史書も、ヴィレンにとっては日々の欲を満たす為の道具でしかない。先人達の言葉も、彼にとっては金貨を得る為の記号。

「かっ、価値のない知識は、必要ありませんか……?」
「進んで取り入れる気はねぇな。お前と違って頭悪ぃから容量が限られてんだよ」

 とんでもない嫌味だが、反論する気は起きなかった。非難された訳ではない、なのに胸が引きつるこの感覚は何なのだろう。
 付いている筈もない埃を落とすように叩いてから、最後の一冊を机に戻した。悲しいかな、この国にも文字を読めない人はいる。彼等にとって、この紙切れは燃料の一部にしかならない。

「私も、価値の有無を選べるようになれば、もっと賢くなれるでしょうか」

 吐く息に、色が宿る。空気が冷えて来たのだろうか。仄かに白を帯びた靄が、一瞬の内に散って行った。

「賢くなれるかどうかなんて知ったこっちゃねぇ。ただ、そうだなぁ、価値より害の有無に敏感になっとけば、そこそこ長生き出来んだろ」

 神の欲には罪が宿る。食欲と暴食、睡眠欲と怠惰、性欲と色欲。人の命を繋ぐはずの本能は、堕落の鍵をいつでも無数に携えていた。
 なら、知識欲が持つ罪は何だ。
 持たざる物を求める強欲か。無知を恥じる憤怒か。高みを目指す原動力であったはずの欲が、人々の手垢に汚されて行く。それは、最初からだったはずなのに。

「大抵の人間は、無知より抱えた知の重さで滅ぶ。クジェスの元帥様なんざいい例だろ。幾ら俺でも同情するな。あのオッサン、どう転んでも、結局はなぁ?」

 クジェスの元帥。白銀の英雄。私は嫌いだ。
 王族の権威を守ると公言しておきながら、彼の行いは軍事国家への移行その物。黒獣と言う脅威を盾に、兵力を蓄え、裏で虎視眈々とセンシハルトを狙っているようにしか見えない。
 だが、今のヴィレンは同情すると言った。周囲より祭り上げられた境遇にだろうか。それとも、仕える王族を守れなかった、八年前の悪夢にだろうか。

「クジェスの元帥は、むしろ無知故の罪を償うべきです! 軍にばかり力を注いで、肝心のーー」

 口を開こうとして、心が粟立った。問えば答えが返るのか。どう転んでも、同情させる結末に飛び込むしかない、白銀の将軍。彼の何をヴィレンは理解しているのだ。仮にそれを聞かされて、自分はどうなる?


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