- ナノ -



もう、後悔しない。
2017/03/06 23:18

私にはいまでも尊敬しているひとがいます。
それは大学時代の、ゼミの教授。
正確には、ゼミの教授だったかたです。
ご専門はドイツ文学でしたが、その底流をなすところの物語……
神話や聖書、哲学や思想分野、心理学、歴史、音楽、絵画、……科学や数学、宇宙まで、
学問というものは、それぞれのフィールドを越えて、さまざまなところでお互いつながりあっているということを深く指し示してくださり、
物事の考え方の基礎を私のなかに作ってくださったかたでした。
学ぶことのおもしろさ、考えることの楽しさ、探求することの大切さ。
それを教授のもとで知ることができたからこそ、いま、私は私自身でいられるのだと折に触れて思います。
教授の講義や演習科目はとても厳しいものが多かったのですが、
こころから尊敬していた教授だったので、苦しいことがたくさんあっても、
もりもりとがんばることができたのだと思います。
いま思い返しても、当時の教授の講義や演習科目中の空気まで自分のなかに再現できる。
それほど、とても濃密な時間だったんです。
どんなにつらくても、教授のもとで、自分のなかのベストを尽くしきった卒業論文を完成させたい。
そう思い、大学2年生のころ、ゼミの希望調査にその教授の名前を書き、提出しました。
そして大学3年生、晴れてその教授のゼミにてドイツ文学の研究をすることになったのです。


しかし……
それは突然のことでした。たしか、あれは大学3年生の夏ごろ。
なんと教授は、次年度から他の大学に転任になってしまったのです。
それを教授自身から聞いた私は、あまりの衝撃に、一瞬、頭がまっしろになりました。
周囲の音がふっと消える。教授が何を言っているのかも理解できない。
すこしずつ音が戻ってきて、頭もはたらくようになってくると、
今度は、じわっと冷や汗のようなものがにじんでくるのがわかりました。
そればかりじゃない。あやうく目には涙がにじみかけてくる。教授の顔も見られない。
きっとそのときの私は、さぞまっさおな顔をしていたのにちがいありません。
そんなことは起こりえないと知っていても、
教授がほんとうに転任なさってしまうその日まで、ずっと、
「転任なんて何かのまちがいだった」ということになる、そういうことはないか、と、
ひたすらに考えていた自分がいました。
あの期間のショックと絶望は、ほんとうに、計り知れないものがあった。


いまよりもっと、ひとと話すこと、ことばをかわすこと、自分の意見を述べることに臆病だった私は、
教授に伝えたいこと、質問したいこと、話してみたいこと、聞いてみたいこと……
たくさんあったというのに、ついにその、半分も伝えることができないままに、終わってしまいました。
転任の発表があってから、実際にご転任されるまでに、半年間の猶予があったというのにも関わらず……
言い換えてみれば、半年間の「チャンス」が、まだ残されていたのにも関わらず、です。
勇気を持って、話してみよう。聞いてみよう。伝えてみよう。
……その勇気が、ほんとうにちょっとした勇気が、持てなくて。
すこしは、がんばってみたんです。
演習中に発言する回数を、ちょっとだけ、増やしたり。教授の研究室を訪ねたり。
……でも、全然、足りなかった。全然、足りなかったんです。
もっと勇気を出して、もっと言ってみればよかった。
質問もしてみればよかった。自分の意見も述べてみればよかった。
それになにより、私は、もっとも肝心なことを、伝え損ねてしまったんです。
……「ありがとうございました」ということばを。
たしかに、「通り一遍」では、お礼をしました。でも、そんなことだけでは、伝えきれなかった。
教授が教えてくださったことに、もっと、もっと、感謝していたのに……
その感謝の気持ちを、ついに、伝えきれずに、終わってしまいました。
転任先の大学を、聞くことさえできずに。


そのときの深く、苦い後悔が、いまでも私のなかにずっと残っています。
だからこそ、せめて……これからは、私のまわりにいる、私の大切なひとたちに、
自分の気持ちをきちんと伝えられるように、
そのときそのときの精いっぱいを伝えられるように、と……
あれから、そう、いつも思っています。
どんなふうにすれば、もっともよく伝わるのか。
どんなかたちで、どう表現してゆくのがよいのか。
それも含めて、常に、考え続けています。
どうして言わなかったんだろう、伝えようとしなかったんだろう、と、
後悔するまえに。


もうお会いすることはないのかもしれませんけれども、でも……
もしお会いできるのならば、今度はきっと、感謝のことばを、ありがとうございましたのことばを、教授に伝えそびれたりはしないでしょう。






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