- ナノ -



選択すること
2017/03/01 23:52

選択することは、「選び取ること」。

それは何かを得ること。手に入れること。

きっと間違っていない。これも選択することの、紛れもない一側面なのだろう。

けれども最近、思う。

選択することは、「切り捨てること」でもあるのだ、と。

選ばれなかったものは、当然ながら、手には残らない。

だけれど私たちは、とかく、選ぶことで得るものに目を向けがちで、

それを得るためにいったい何が切り捨てられたのかを、

よく見ずに、考えずにいることが、かなりあるのではないだろうか、と。



選択できることは、自由のあることだ。

しかし、選ぶことには常に責任がともなう。

どんな小さな選択にも、選ぶことによって選ばれなかったものが生じる。

大きな選択になればなるほど、選ぶことによって選ばれなかったものについて、

責任も大きくなる。

その責任は、選んだ自分自身が負わねばならない。

選んだことによって得るものと引き換えに、

選んだことによって切り捨てたものへの責任もまた、その手のなかに残るのだ。

自分自身が選択したことについては、だから、本来、他の誰も責めることができない。



そうであるからこそ、私たちはきっと、

選択したときに、いったい何が「切り捨てられたのか」をよく見なければならない。

その切り捨てられたものへの責任が持てないような選択ならば、

ほんとうはすべきではないのだろう。

選ぶということは、それほどまでに、重い意味合いを持つ行為だ。



そのように考えると、選ぶことは、とても苦しいことだ。

ある側面から見れば、いっそ、残酷ともいえる。

その苦しさから逃れる方法がひとつだけある。

何も見ず、何も考えず、何も選ばないことだ。

そうすれば、責任を負わなくてすむ。

だがそれは、選ぶという自由を捨てることに他ならない。

責任を負わない代わりに、何物も得ない、ということに他ならない。

はたして、今度は、「選ばないこと」を「選んだ」ことに、

自分自身で責任を持たねばならない。

選ばなかったからといって、何物も手に入れられなかったことを、

誰かのせいにしてはならない。

そのようにすることを「選択」したのは、自分自身なのだから。

だが、それを知りながら、あえて選ばないというのであれば、

選択をかわし続ける「選択」をしてもいい。



私たちはどのように生きることもできる。

何を選ぶこともできる。何も選ばないこともできる。

しかし私は、私自身は、

選択し続けることを「選択」し続けたい。

責任を負い、何かを得ることを。自由であり続けることを。

そのために、考え続けていこうと思う。知り続けていこうと思う。

まだ考えたことのないことを。まだ知らないことを。



選択することとは、そう、「選択できること」が常にある、と知ることから、始まるのだ。

きっと、そうに違いない。





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