- ナノ -



大学時代 
2016/06/23 22:26

日本語の文献、ドイツ語の文献、古い本、新しい本、
分厚い辞書に、片手に収まるサイズの小さく薄い洋書。
大きな部屋とは、とても言えない。
けれどもその部屋は、私の心を揺さぶるような、
たくさんの「素敵」と、「わくわく」と、「謎」に満ちていた。
窓から日のひかりが、やわらかく差し込む。

私は緊張していた。
だから、そのときどんな話をしたのか、詳しいことまではよく思い出せない。
しかし今でも、不意に蘇る言葉がある。
それはあの日、あの部屋で聞いた、教授の言葉。


「君はホフマンみたいに、昼間は裁判官として働きながら……、
夜には作品を書いたりしているかもね」


すでに就職活動を始めていた。
とある試験のために、法律を勉強していた。
法律は難しいけれど、面白い、と話した。
だから教授は、ちょっと冗談めかして、そんなことをおっしゃったのかもしれない。
私は裁判官にはならなかった。
そして当然、働きながら何かを書くなどという未来も訪れないと思っていた。
書くのは好きだが、書くのには多大な時間がかかり、労力もいる。
仕事を果たしながら、夜は書き物をするなんて、
あの立派なドイツ文学者・ホフマンのようには、とてもゆかない。
そう思っていた。


教授にいつ、書き物をするのが好きだ、と話したのだろう?
その記憶が、私にはない。
しかし教授はそれを、記憶に留めてくれていたらしいのだ。
それが嬉しくて、……苦かった。
好きだが、まとまったものを書き上げられていない。
好きだが、仕事と両立なんてできない。
好きだが、きっとこれからも書かないでいる。
好きなのに、何もできないで終わる。
このまま、終わってしまう。
心から尊敬する教授が、せっかく覚えてくださっていたのに。
それなのに。


教授は、突然、転任になった。
転任することを教授から聞いたとき、私は泣きそうな顔をしていたと思う。
教授は転任先を教えてはくださらなかった。
私もあえて、尋ねなかった。
風の噂で、東京のほうに転任になったのだ、と聞いた。
教授は、お元気だろうか。
もう会うこともないのかもしれない。
だが、もしどこかで会うことがあるのなら……
会うことはなくても、この言葉が届けられるのなら……
伝えたい。


教授がおっしゃっていたようになりました。
裁判官にはならなかったけれど。
ホフマンにも遠く及ばないけれど。
仕事をしながら、書き物をしています。
つらいことも、苦しいことも尽きない毎日ですが、
書きたいものが書けて、幸せです。

と。


……あの日の、あの部屋。
教授の研究室で、教授と言葉を交わしたことを、
懐かしく思い返しながら。











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