- ナノ -



「こども」にもどる
2016/06/19 22:07

最近、なおのこと思うようになりました。
私、大人になるにつれてむしろ「こどもっぽくなった」、と。



今では「みんな案外そんなものなのかも」、という気もしているのですが、
それにしたって、私はこどものころ、ひとの目を気にしすぎていたなあなんて思うんです。
ひとからきらわれるのを極度に恐れていたんです。
だから、自分の主張とか思いがあっても、「こんなこと言ったらきらわれるんじゃないか……」と気にして気にして、その結果、表現せずに自分のなかに沈殿させてばかりいました。
行動についても同じ。「こんなことしたら、きらわれてしまうかも……」と、ささいなことにでも思ってしまって、結局、何もできなかったり。
失敗することを極端に恐れて、自分のしたいことにさえも一歩を踏み出せず、常に無難なほうに流れたり。
ひとからきらわれたくないもので、何かを必死に「演じる」傾向も強かったです。
「きれいで完璧な自分をつくりあげる」。
けれどもそれって、すごく虚しいことですし、さみしいこと、苦しいことです。
たとえひとからきらわれなくても、「孤独」です。
それに、絶えずひとの目を気にしてものすごく細かなところまで考え込んでしまうので、常に緊張状態にあり……こころの「自由」とも、ほど遠く暮らしていたように思います。
よくもわるくも、「自分の感じること、思うこと、考えること、したいこと」にまっすぐすなお。
そういう観点から「こども」を捉えてみるのならば、私自身は、
およそこどもらしくない「こども」時代をすごしてきたなあ、と思います。

何かが少しずつ変わり始めたのは、高校時代。
ちいさなころから書くことが好きでしたが、私はずっと、
自分の書くものにさえもすなおになれず、「演じていた」。
自分のこころはどうあれ、とにかく「きれいな文章を作り上げていた」んですね。
けれど、もうそれではこころがしんどくて、ともすると「きれいな文面と内容」に流れる自分と必死に闘いながら、
自分で直視するのもつらいような、「演じてきた自分」についての書き物をしました。
それが、『大切な、あなたたちへ』……高校時代の文芸部の作品として書いた書き物の、ひとつです。
自分と向き合い、自分のこころをしっかり捉えて、思うように、感じたように、考えたままに書く。
たとえそれが、「きれい」でなくても。
「完璧」でなくても。
それはものすごい痛みを伴うことでした。シャープペンシルの先を自分の胸に突き立てて、物を綴るような。
けれどもその一方で、「演じず」に書くこと、それがどのくらい爽やかで心地よく、自分のこころにしっくりとくるものなのかも、知ったのです。
この作品を書き上げたこと……それによって、私は、自分のこころで感じたままをすなおに文章表現できるようになっていった、という気がします。
自分のこころのいちばん奥底、それをのぞき、偽らずに文章にする方法を学ぶことができたのです。

そして、現在。

家族、学生時代からの友人、同じ職場のみなさん、地域のひとびと。遠く離れてはいるけれども、インターネットなどを介してつながっている大事なひとたち、……など。
さまざまなひとと話し、支えたり支えてもらったり、ときには衝突したりしながら、
私は少しずつ、文章の世界以外でも、まっすぐ自分自身でいることができるようになってきている気がします。
ひとそれぞれ、ちがう感じ方や考え方、捉え方があってふつうなんです。
だから、それが「ほんとうに」自分のこころからの思いであるのならば、
ぶつかることを恐れて、妙なふうに折れたり、思いを無理やりに封じ込めてふたをしたりはしなくていい。
ぶつかってもいいのです。まさにそこから、お互いを分かり合おうとすることこそが、きっと大事で。
それでもどうしても分かり合うことができないならば、そっと、距離をおけばいい。
この世界にいるみんなに好かれなくてもいいんです。
ひとりひとりちがうこころを持っているのですから、馬が合わないひとがいても自然なこと。
きっと分かり合うことのできるひとがどこかにはいます。そう信じておけばいい。
……そんなふうに思えるようになったことも、大きいのかもしれません。
ちょっとした勇気を持って話してみると、意外とおたがい「あるある!」と共感できたりすることも多いですし、ね。


かつて、ドイツの文豪、ゲーテは、その著書のなかでこう言いました。



   自分自身をなくしさえせねば
   どんな生活を送るもよい。
   すべてを失ってもいい、
   自分のあるところのものでいつもあれば。

      
       (高橋健二編・訳「ゲーテ格言集」新潮文庫,2009年,127頁より)



自分自身であること、自分のこころにすなおであること、
……自分の感じること、思うこと、考えること、やってみたいと思えることに、まっすぐであれること。
それは、きっと、力強く生きることにつながっていく。
自分のなかに根っこをきちんと持つひとは、きっと、強い。とてつもなく。

そういった面で、自分のなかに「こども」を持ち続けていくのはとても大切で。
もちろん、なりふりかまわず自分勝手にすることとは意味がちがいます。それを律する「おとな」のこころも大切。
しかし、すなおな「こども」の部分を手放してしまってはどうしようもありません。
私の場合、こどものころ、そういう面での「こども」を殺しすぎて、
大人になった今になってようやく、自分のなかに「こども」を取り戻すことができつつある感じがします。
なにやら、今よりずいぶん時間にもこころにも余裕があったはずのこども時代よりも、
むしろ現在のほうが「自由」だな、と思えるときもあるくらいで。
そういうとき、ああ、なんだか「こどもっぽくなった」なあ、なんて思います。
……不思議にすがすがしさを感じつつ。


私は昔より、少しは強くなれているでしょうか、ね……?



ちなみに、私に誰よりも、「まっすぐ」であることを教えてくれたひとがいます。
そのひととは誰か? ……さあ。それはまた、別のお話。









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