- ナノ -



ひとりじゃない。
2016/06/05 01:33

「ひとはみな、ひとりじゃない」

なんて、よく言われますが、おそらくそれはほんとうのこと。
困ったときにも、悲しいときにも、寂しいときにも、つらいときにも、
すこし顔を上げて周りを見まわしてみれば、きっと、助けてくれるひとはいる。声をかけてくれるひとも、心配してくれるひとも、支えてくれるひともいる。

けれども、

「ひとはみな、ひとりなのだ」

ということも、また、ほんとうのことだと私は思います。
自分の生き方は、自分にしか決められない。
自分の行動も、選択も、誰かが肩代わりしてやってくれるものではありません。それらはすべて、自分自身で行うしかないのです。
どんなに誰かが助けてくれようとも、声をかけてくれようとも、心配して、支えてくれようとも、
最終的に判断し、決断し、舵を取って進むのは、自分ひとりにしかできないことです。
もっといえば、誰かに助けてもらうにも、自分からなにか行動を起こさなければならないことが多い。じっとしていては、助けさえ得られないこともあるんです。
そう考えると、私たちはどうしようもなく孤独です。
とても「残酷なこと」、とも言えるかもしれません。


自分で選び取り、考え、決断し、行動し……進んでいくことには、ときに、強い勇気が必要となります。
その重さや苦しみに耐えかねて、逃げ出したくなってしまう。
考えたくない。決めたくない。やりたくない。どこへも行かず何もせず、このままここにとどまりたい。
他ならぬ私自身が、そうなのです。けれども、それがどれだけ恐ろしいことでも、誰かに代わってやってもらうことはできない。それもまた、わかってはいるんです。
同じように、誰かが何かを選び取り、考え、決断し、行動し……進んでいくことを、私はそのひとの代わりにすることはできない。
そのひとをどこかで支えることはできるかもしれない。そうあれたらいいと思う。
けれども、そのひとに代わって、そのひとの道を進んでゆくことはけっしてできません。
それはそのひと自身が決め、進んでゆかなければならない道です。
私はやさしくなんかありませんから、その一線を越えて、誰かを助けようとは思いません。助けられないことも、わかっています。あるいは、助けてはいけない、とも。
そこは、自分でもふしぎなほどに、すとんと割り切って考えてしまいます。
ただしそれは、悲しい。誰かに代わってもらえないことも、誰かの代わりになれないことも。
とても悲しくて、つらくて……そして思うのです。ひとはみな、ひとりなんだ、と。


……けれど、たとえ、そうであっても。
あるいは、そうであるからこそ。
せめて、そっと、共にいられる場所があったらいいな、と思うのです。
自分自身にしか決められず、進めない「孤独」を、おたがい抱えていながら。
それでも、そっと、共にいられる時間があったらいいな、と思うのです。
いっしょに笑ったり、泣いたり、ときには、ただそばにいたり……そうすることで、前へ進むための大きなちからを、勇気を、おたがいに出すことができるかもしれないから。
それは、誰かを大切に思うことでもあり、また、自分自身を大切にすることでもあると思うんです。
抱えたそれぞれの「孤独」にも、誰かと共になら、おたがいに立ち向かうことができるかもしれないんです。
ひとはみな、ひとりじゃないのですから。


きっと、「孤独」でさえ、ほんとうはけっして「敵」などではないのです。
自分で選び、考え、決め、……進むことが、できる。
それは、限りない「自由」でもあるのだ、と。
私たちが心に持つ、誰にも支配されない、「自由」でもあるのだ、と。


私はそう、信じています。















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