- ナノ -



"The die is cast"
2016/05/13 00:17

小学生のころは、よかったなあ、と。中学生のとき、思っていました。
勉強も難しくないし。宿題もそんなに、多くないし。
時間の流れも、ゆったりしていて。
中学生のころは、よかったなあ、と。高校生のとき、思っていました。
どれほど試験でよくない点をとっても、ともかく進級はできるんだし。
高校受験の勉強だって、大学受験ほどには苦しくなかったし。
高校生のころは、よかったなあ、と。大学生のとき、思っていました。
自分で選び取るということの難しさを、まだよく知らずにいられたし。
大学受験だって、就職活動ほどにはつらくなかったし。
……そしてまた、学生時代はよかったなあ、と。社会人になって思っているんです。
思う存分、いろいろなことを勉強できたし。その時間もあったし。
まだ「大人」に、守られていることができたし、なんて。

壁に行き当たると、いつのまにか後ろを向いている。
ああ、あのころはよかったなあ、って、いつでも、そればっかりで。
このまま、後ろを向いて生き続けるのでしょうか。
数年後の私は、今の私を振り返って、
「あのころはずいぶん気楽だったものだ」
なんて、言っているのでしょうか。
今確かにここにある行き詰まりも痛みも、すべて忘れて。過去の自分を貶しながらも……嫉妬して。

違う。
たしかに、「大変さ」の度合いは変わってはいます。
けれども、過去のどの時点の自分も、そのときそのときを懸命に生きてきた。
生きてきたはずなんです、どんなにつらいと思うことがあっても。
だから今、「私」という存在がここにある。
それならば、嫉妬するとか、
「あのころの自分は何にもわかってなくてお気楽だった」なんて、嘲笑するのではなく。
もっと誇りに思っていいはずです、過去の自分を。
たとえ不恰好に、転がるようにして進んでいたとしても。
そのときをたしかに、生き抜いたのですから。
そして……今できることをするのならば、いましかないということ。それは、未来の自分が教えてくれること。
「あのとき、あれができた。あれを持っていた」
なんて後ろを向いているかもしれない、未来の自分が教えてくれること。
今しかできないことが、必ず何かある。今だからできることが、必ず何かある。
過去を生き抜いてきた自分が、今の自分の誇りになるのなら、
未来の自分が誇れる自分は、今の自分が作ってゆくものなのかもしれません。
今できること。それを実行できるのは、この、いましかないんです。
後ろを向いていそうな未来の自分を前に向かせるために何かできるかもしれないのは、いまなのです。

「賽は投げられた」という言葉があります。
事、ここに至れば、もう後戻りはできない。ならばもはや進むのみ、という、そんな意味の言葉です。
きっと……人生万事塞翁が馬、ならぬ、人生万事「賽は投げられた」。
たとえ「事」なんて起こってないように感じられる毎日であっても、今は、いましかない。
その意味で、いつでも、どんなときも、「事」はすでに、始まっている。もう、後戻りはできない、と。進むしかない、と。
……賽は投げられているのだ、と、思うからです。

数年先にたどり着きたい場所、やっていたいこと、なっていたい自分を思い浮かべ、
「今の自分ができることは、なんだろう」と、考えています。








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