- ナノ -



忘れられない悔しさ
2022/03/06 22:25

とても悔しかったことがあるんです。
高校時代、大学の推薦試験を受けるときに、先生から遠回しに言われたこと。
試験に受かりたいのならば、面接では多少の「うそ」も必要である……というものです。
冷静に考えて、それはわかるところもあります。
たとえば、大学で学びたいことが漠然とはあっても、まだはっきりしていないとき。
そのままで面接にのぞめば、自然と面接の内容もぼんやりとしてしまうことでしょう。
合格することを第一に考えるのなら、きちんと筋道の通った「ストーリー」を組み立ててのぞむことが必要です。
仮に、心からはそう思っていなかったとしても、面接用の何かを作り上げる必要がある。
大学で具体的に学びたいこと、その理由、それを将来にどう活かしていきたいか。そういったことを。
そうすれば面接官の印象に残る、はっきりとした面接になります。

そんなことはわかっていても。
それでも、仮の「ストーリー」を作り上げて面接に臨むのはとても悔しかったのです。
これはいったい、なんのための面接なのでしょう?
上手に「ストーリー」を組み立てる力を証明するための面接?
必要であれば「うそ」もさらりとした顔で述べてみせる力を試すための面接?
はたまた、演技力を測る面接? 「いい子」を見せつけるための面接?
合格できればなんでもいいというのでしょうか。
しかし、当時目指していた大学へ筆記試験のみで通過できるかどうかは、
私の場合、かなりぎりぎりのところでした。
望みの綱は、筆記試験に加えて面接や小論文の評価も加味する推薦試験の道。
面接をないがしろにすることはできませんでした。
心にもやもやとしたものを抱えながら面接の想定問答を作りました。
それまで考えたこともなかったことを織り交ぜながら「ストーリー」を作ったことで、
矛盾やほころびが出ないよう、回答に暗記が必要になりました。
ほんとうになんでこんなことをしているんだろうという虚無感が押し寄せました。
そのときのことを思うと、いまでも胃の奥がぐらぐらとするようです。

その年は数学の試験が難化し、私は推薦試験に救われるようにして希望の大学に合格しました。
でもそのとき、思ったのです。もう二度とこんな思いをしながら面接を受けたくないと。
ではどうしたら、結果も出し、なおかつ「うそ」をつかなくてすむのでしょうか。
それは難しいけれども、ほんとうにシンプルなことでした。
つまり、等身大の自分であっても面接に通用するような自分であればいいのです。
そして、自分がほんとうに目指したいと思えるもの、やってみたいと思えること、その道を選び取るように最善を尽くすことです。
そうすれば、「ストーリー」なんて組み立てなくても、自然にそれはそこに「ある」はずなのですから。

以来、自分に正しい誇りを持つにはどうしたらいいかを考えるとともに、うんと迷ったときは心の中にいる面接官と対峙するようになりました。
どの道を選べば、等身大の自分のままはっきりと面接できるのか。
やりたいこと、その理由と、この先目指すもの、それをうそ偽りなく述べられるのはどの道か。
それは試金石といってもいいかもしれません。私にとっての。

実は、話して自己表現することは不得手です。
しかしそこに伝えたいと思うことがあるとき、たとえ話しがうまくなくとも伝えようと心は自然に動く。
気がつけば高校入学時も大学入学時も面接を切り抜けてきた私にとって、
面接と向き合うことは人生の節目節目での自分と向き合うということに等しいのかもしれません。

そう思います。





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