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「尾形さん、どうして煙草吸わないんですか?似合いそうなのに」

「煙草吸わない奴を指名したのお前だろ」

呆れたように言った尾形さんは、私の顎の両側に手を添えて顔の角度を調整すると、髪を梳いて状態を確認しながら続けた。

「依存性の高い嗜好品はやらない主義でね」

「へえ…あ、じゃあ、お酒も?」

「いや、酒は飲む。たしなむ程度にな」

「尾形さん、お酒強そう」

「まあ、弱くはねえが」

「やっぱり。そんな感じしますもん」

「お前は弱そうだな」

「強くはないです」

こうして髪をチェックされる時に優しく触れられるのが凄く心地よい。
いつまでも触っていてほしくなってしまう。
軽くブラッシングしてから尾形さんはペダルを踏んで、私が座っている椅子の高さを下げた。

「よし、シャンプー行くぞ」

「はーい」

大抵のお店ではシャンプーは見習いの人がやることが多いが、尾形さんは人任せにするのが嫌だと言って、シャンプーもしてくれる。

尾形さんにエスコートされてシャンプーブースに向かうと、ちょうど隣のブースから牛山さんについて女性客が出てきたところだった。
どんなテクを使われたものか、女性客の目はとろんとしていて足取りも危うい。

「浮気してんじゃねえ」

すれ違いざまに牛山さんにウインクされた私に、尾形さんが文句を言って来る。
ひどい言いがかりだ。
この美容室に初めて来てからずっと尾形さんしか指名していないのに。

以前通っていた美容室が閉店してしまったので、良いお店はないか探していたところ、同じゼミの子にお勧めの美容室があると紹介してもらったのがここに来たきっかけだった。

男女のこだわりはなかったので、男性スタッフしかいない店だとわかっても特に不満はなかった。
ただ、嫌煙家というほどではないものの、煙草のニオイが苦手なため、煙草を吸わない人をお願いしたところ、担当についてくれたのが尾形さんだったのである。

尾形さんは美容師さんだけあって、自身も個性的な髪型をしている。
ツーブロックのオールバックなんて初めて見た。

マッサージチェアのような大きな皮張りの椅子に座ると、腰から下の部分がちょっと上がって頭が洗面台の丸い窪みの上に来た。

顔の上には薄いガーゼを乗せ、丸めたホットタオルを首の下に敷いて貰って、まずは髪全体をシャワーの湯でまんべんなく濡らされる。

尾形さんの大きな手で後頭部を支えられてチャポチャポと濡らされるのだが、これが気持ちがいい。
いつももっとやってと思ってしまう。

尾形さんの指で堤防を作りながら、生え際のギリギリまでシャワーのお湯が来る。

時間をかけてしっかり濡らし終えると、いよいよシャンプーだ。

シャンプー液を塗布され、手で塗り広げたら、次の瞬間から力強いマッサージ洗いが始まる。

頭頂部から側頭部、生え際から後頭部までを、シャカシャカごしごしと、尾形さんの手指が縦横無尽に走り回る。
あんまり力強いので一瞬爪を立てているのかと思うが、痛みは全くない。
地肌を痛めないように指先と指の腹を上手く使い分けて洗っているらしかった。

ある程度泡が行き渡ったら、今度は脂を揉み出すような動きに変わる。
時々ツボ押しを混じえながら、たっぷりと時間をかけてシャンプーは続いた。

「痒いところはねえか」

「大丈夫です…」

あまりの心地よさに朦朧となりながら答える。
ガーゼの唇の辺りに何かが軽く触れた感触があったが、泡が散るか何かして指で取られたのだろうと、特に深く考えることはしなかった。

一通り揉み洗いが済んだあとは、シャワーで髪を洗い流される。
もちろん、あの後頭部チャポチャポもされてうっとりしてしまう。

コンディショナーを付けて髪を優しく梳き流すと、再びシャワーで洗い流して終了。

ふかふかした柔らかいタオルでしっかり髪の水分を拭き取られる頃には、半分魂が抜けたような状態になっていた。
耳をタオルでくるりんと拭かれ、顔に乗せられていたガーゼを取られて椅子を起こされる。

「戻るぞ」

「はぁい…」

よたよたしながら尾形さんについて歩いて元の椅子まで戻る。
されるがままケープを着せられ、鏡の中の尾形さんと目が合う。
シャンプーが終わったばかりでぼーっとしているせいか、尾形さんの真っ黒な瞳の中に吸い込まれてしまうような錯覚を覚えた。

「今日もお任せでいいのか」

「はい、お願いします」

シャキシャキとハサミが鳴って、髪が切り落とされていく。
私は完全にリラックスしきって身を任せていた。
考えてみれば、顔のすぐ近くに刃物があるのにリラックス出来ているなんて不思議な話だ。
でも、私は尾形さんの腕を信じきっていたので、恐怖も不安も感じなかった。

「なあ、なまえ。メシ食いに行こうぜ」

「今日、ですか?」

「ああ。どうせ暇だろ」

「それは…まあ」

「良い店がある。奢ってやるよ」

「う……ん」

「なんだよ、嫌なのか」

「だって、なんか色恋営業みたいで」

「ははッ」

綺麗に切り揃えられた髪を撫でつけるようにして頭を撫でられる。

「色恋営業なんざしなくても食いっぱぐれたりしねえよ。お前が気に入ったからデートに誘ってるんだ」

「え、う、」

「7時に西口の改札前な」

「ちょっと急過ぎません?」

「アホか、全然急じゃねえ。最初からずっと狙ってたに決まってるだろ」

「ええっ」

「ほら、シャンプー行くぞ」

「あ、はい」

再びシャンプーブースに案内されて行きながら、私は早くも、待ち合わせの時間までにどこでメイクを直して待っていようと頭を悩ませていた。


でも、私は知らなかったのだ。

尾形さんがずっと前から私を知っていたこと。

通っていた以前の美容室が閉店するタイミングを狙って、ゼミの子を使ってこの店を紹介させたこと。

私が苦手だから、煙草をやめたこと。

そうして、獲物が罠にかかるのをずっとずっと待っていたことを。

私は何も知らなかった。


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