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バスツアー当日。

最寄り駅のバスロータリーにやって来た私は、自分が乗るバスを探した。
どうやら右端に停まっている高級感のある紫色の大きなバスが、私の乗るバスのようだ。

「お待ちしておりました。中へどうぞ」

入口でバスガイドらしき綺麗な女性にチケットを差し出して確認を終えると、私はバスに乗り込んで自分の座席に向かった。

想像していたよりも中は広く、座席と座席との間も充分なスペースがあり、通路の幅も余裕がある。
これなら窮屈な思いをせずにバスの旅を楽しめるだろう。

「あっ」

「遅かったな、なまえ」

「尾形さん?」

私の席の隣は既に埋まっていた。
まさか、それが知り合いの、しかも私が苦手に思っているあの尾形さんだとは思わなかったが。

「ほら、座れよ」

尾形さんが席を立って通してくれたので、私は小さな声で礼を述べて窓際の座席に腰を降ろした。

私の気持ちを知ってか知らずか、尾形さんがずいっと顔を近づけてきた。

「なあ」

「ひっ」

「そう怖がるなよ。今のは傷ついたぜ」

「な…何ですか?」

「いやなに、せっかく隣同士になったんだ。今日は仲良くやろうと思ってな」

尾形さんがひじ掛けに置かれた私の手に自分の手を重ね、人差し指で私の指を撫でる。
ゆっくりと。愛撫するように。

「ふえぇ…ッ」

「おい、よせよ。嫌がってるじゃねえか」

凛とした男性の声に、尾形さんと私は同時にそちらを向いた。

「杉元か…何の用だ」

「おいおい、お前だってまさか出発前から騒ぎを起こしたくないだろ」

「…チッ」

「すみません、ありがとうございます」

尾形さんの手が離れたことに安堵しつつ、私は杉元さんにお礼を言った。

「お礼なんかいいって。俺は前の席にいるからさ、何かあれば遠慮なく言ってくれよ」

「はい、ありがとうございます」

杉元さん、と呟いて頬を染める私を、隣の席から尾形さんがジッと見据えていた。

「なんだよ。ああいうのがタイプなのか」

「べ、別にそういうわけじゃ…」

「フン…」

面白くなさそうに鼻を鳴らして、尾形さんがそっぽを向く。
それきり彼は話しかけて来なかった。

バスが停車したのは郊外のぶどう園だった。
ここでぶどう狩りを行なうらしい。

「あの、杉元さん、良かったら一緒に回りませんか?」

「ああ、いいぜ。ちょうど俺も誘おうと思ってたんだ」

「良かった!ありがとうございます」

「じゃあ、行くか」


 * *


楽しかったバスツアーも、もう終わり。
名残惜しいが仕方がない。

バスのロータリーに到着すると、乗客は次々にバスを降りて行った。

「なまえちゃん」

バスを降りたところで、私は杉元さんに呼び止められた。

「途中までだけど、送って行くよ」

「いいんですか?」

「もう少しなまえちゃんと話してたいなって」

「嬉しい!私もです」

夕暮れの住宅街を並んで歩いていく。
杉元さんが楽しい話題をふってくれるので、先ほどまでの寂しい気持ちはどこかへ行ってしまった。

「杉元さんのお陰で今日はとても楽しかったです」

「俺もだよ。すっげえ楽しかった」

二人の間に優しい沈黙が落ちた。

「これ、俺の名刺。良かったら連絡してくれよ」

「ありがとうございます。必ず連絡します」

「じゃあ、俺はこれで」

「はい。ありがとうございました。気をつけて」

「なまえちゃんも気をつけて。帰るまで気を抜かないようにな」

「はい、気をつけます」

杉元さんに手を振って、遠ざかっていく背中を見送る。
その姿が曲がり角の向こうに消えたところで私も歩き出した。

しかし、自宅に向かって歩き出して少ししたところで、突然がくんと脚が崩れた。

「おっと」

そのまま倒れそうになった身体を誰かが支えてくれる。
その体温と香りから、それが今日ずっと隣に居た人物のものだとわかった。

「尾形さん…?」

「今頃になって効いてきたのか。なかなか効果が表れないから、薬が効かない体質なのかと思って焦ったぜ」

「く、すり…?」

「飲み物に混ぜておいた。気づかなかっただろ?」

どうして、という問いかけはもう言葉にならなかった。

「お前をみすみす他の男にくれてやると思ったのか?冗談じゃねえ。お前は俺の獲物だ」

尾形さんは軽々と私を抱き上げると、近くに停めてあった車へと運んでいく。

「安心しろ。優しくしてやる。こう見えて俺は一途なんだぜ。一目お前を見た瞬間から俺の女にすると決めていたくらいに、な」

「た…たすけ…て…」

「誰に助けを求めてる?ああ、杉元か」

私を助手席に座らせると、尾形さんは私のポケットに手を入れて杉元さんの名刺を取り出した。
そして、私に見せつけるようにしてビリビリに破いて捨ててしまった。

「これでよし、と」

私は破かれた名刺に手を伸ばそうとしたが、実際には尾形さんに飲まされた薬のせいで身動きひとつ出来なかった。

尾形さんが助手席のドアを閉め、運転席に乗り込む。

「さあ、帰るか。俺達の家へ。細々した物は後から買い足さなきゃならねえが、大体のものは揃えてある。お前もきっと気に入るはずだ」

私の唇にキスを落とし、尾形さんは車を発進させた。

無情にも自宅から遠ざかっていくのを感じながら、どうすることも出来ない。

瞳から溢れ出した涙を、尾形さんの指が優しく拭い取った。

「泣くな。大丈夫だ、お前には俺がいる。この先一生何があっても離してやらねえから安心しろ」


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