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買い物から帰る途中、何がなんだかわからない内に、現代からこの明治後期の世界へ突然飛ばされて、そろそろ一ヶ月が経とうとしている。

右も左もわからず途方に暮れていた私を拾ってくれた親切な老夫婦に少しの間お世話になっていたのだが、以前息子さん夫婦が住んでいたという古い家を貸して貰った上に、仕事まで紹介して頂いた。

そうして、西洋料理店の調理兼女子給仕人として働くようになってから、よく来て下さるお客様の顔は覚えたのだが、その中に印象的な人がひとりいた。

第7師団歩兵第27聯隊に所属している軍人さんで、階級は上等兵。
そんな人がどうしてか、ほぼ何日かおきに通ってくれている。

「これはお前が作ったのか」

「えっ」

「店主に聞いた」

「はい、あの、何か問題がありましたでしょうか」

その日は、この時代では貴重品とされる卵と鶏肉を使ったオムライスをお勧めメニューとして提供していたのだが、この軍人さんもそれを頼んでいたらしかった。

「いや、美味かったぜ」

真っ暗な洞窟を思わせる黒々とした瞳と目が合い、背筋がゾクッとする。
いま思えば、それは本能的に感じた恐怖だったのかもしれない。
その人が黒目がちな目を細めると、満足げな猫のように見えた。

「また食いに来る」

「ありがとうございます。お待ちしております」

そう答えたのは接客業の店員として当然のことだった。
だから、私のせいではないはずだ。
それからその軍人さんが足しげく通うようになったのも、まるでお勘定のついでというように何かしら持って来てくれるようになったことも。

「お前にやる」

「あの、困ります」

「いいから、受け取っておけ。それとも、店の悪い噂を流されてえのか」

「きょ、脅迫!」

「人聞きの悪いことを。惚れた女に贈り物をして何が悪い」

レースのリボンを無理矢理手に握らされて、私は困りはててしまった。
厨房からこちらを覗いているオーナーは、なんだか微笑ましいものを見るような目で見ているし、第一、他のお客様の目もあるのに。

「これなら、お前の綺麗な黒髪に合うだろう。ちょっと着けて見せろよ」

「うう…」

断りきれずに、後ろでゴムでひとつに束ねていた髪にレースのリボンを結ぶと、軍人さんはまた満足そうに目を細めた。
やっぱり猫みたいな人だ。

「よく似合ってるぜ」

「ありがとうございます」

またある時は、お店の食材の買い出しに行った先で偶然出会ってしまい、断る間もなく荷物を取り上げられてしまった。

「大丈夫です、持てますからッ」

「いいから甘えておけ」

「でも…」

「尾形百之助だ」

「尾形さん…?」

「ああ」

やっと名前で呼んでくれたな、と甘い声音で告げられて、ますます困ってしまった。
けれども、強引だけど悪い人ではなさそうだと思ったのだ。その時は。

「とんでもなく悪い奴だよ、こいつは!」

「す、杉元さん…」

「このコウモリ野郎が甘いのは、なまえちゃんにだけだからねッ!」

「俺は執念深くねえと言っただろ。お前にやられたことはとっくに水に流してやったぜ、杉元一等卒。いつまで根に持ってるんだ。今のは傷ついたよ」

「お、尾形さん…」

「お前はいいからなまえちゃんを離せよ!」

「嫌だね。自分の女を甘やかして何が悪い」

「目に毒なんだよッ」

「フン、童貞が」

尾形さんの胡座をかいた脚の上に座らされている私を指差して、杉元さんがわめく。
尾形さんは素知らぬ顔で私が淹れたお茶を飲んでいた。
こちらへ来た時に持っていた買い物袋に入っていたティーバッグがこの旅で大層役に立っている。

「二人ともいい加減にしないか。なまえが困っているだろう」

「アシリパちゃん!」

やっぱりアシリパちゃんが一番頼りになる。
そう思っていたら、お腹に回された尾形さんの腕に力がこもり、逃がさないとばかりに、ぎゅうと抱きしめられた。
すり…と頬擦りされると、お髭が当たって痛いです。
それだけならともかく、首筋にキスするのはダメですってば。

「一番頼りになるのは俺だろ。なあ、なまえ」

「あッ、だめ、尾形さ、」

「そういうところだぞッ!尾形上等兵ッ!!」


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