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きっと川を北上して来たのだろう。
肌を刺すような冷気でそれがわかる。
網走監獄に乗り込む前に居たコタンとは全く空気が違う。
寒さが段違いだ。
毛皮の上からアシリパちゃんを抱き締めていても、寒さで震えてしまうくらいだった。

「この港で乗り換えるぞ」

尾形さんが立ち上がって言った。
どこの港かはわからないが、かなり北へ来たはずだ。
ここから大きな船に乗り換えるということは、もしかしてもっと北に進む予定なのだろうか。

「しっかりしろ、元気を出すんだ」

反応が薄いアシリパちゃんに向けて尾形さんが告げる。

「行こう、アシリパ…」

初めて、尾形さんがアシリパちゃんの名前を呼んだ。

こんな状況でなければ素直に喜べたのに。
尾形さんの真意がわからないいまは、虚しく聞こえるだけだ。

「よし、行こうぜ」

最初に白石さんが舟を降りた。
いつでもどうしようもない空気を変えてくれたのは白石さんだった気がする。
杉元さんが居ないいま、白石さんがアシリパちゃんの側にいてくれて本当に良かったと思う。

続いて、キロランケさんと尾形さんが舟を降り、後ろ髪を引かれるように来たほうを気にしながらアシリパちゃんも舟を降りた。

「なまえ」

あの時と同じように差し伸べられた尾形さんの手を取って、私も舟を降りる。
この大きなあたたかい手だけを頼りにここまでやって来た。
他の誰がこの人を裏切り者だと責めても、私だけは味方でありたいと思う。

「少し顔色が悪いな」

「大丈夫です。ちょっとお腹がすいてるだけで…」

「ここには商船も来ている。食料を調達してきてやるから待ってろ」

キロランケさんがそう言って離れていく。
私はまだ尾形さんの手を握ったままだった。

「これからどこに行くんですか」

本当に聞きたかったのは、少し違う。
本当は、これからどうなってしまうんですかと聞いてしまいたかった。
でも、それではきっと答えは得られなかっただろう。

「樺太だ」

「樺太?」

「そこに、アシリパが金塊の在り処についての鍵を思い出すきっかけがあるはずだと言っていた」

「キロランケさんが」

嘘だ、と直感的に思った。
キロランケさんは尾形さんに嘘をついている。
きっと別に目的があるはずだ。
私達にとってそれが都合が悪いことだから隠しているのかもしれない。

キロランケさん達はパルチザンなのではないかと言っていた土方さんの言葉が事実なら、キロランケさんはアシリパちゃんを昔の仲間に会わせようとしているのではないだろうか。

「どうした」

「…キロランケさんを信用しないで下さい」

「俺はお前以外誰も信用していない」

「それなのに、キロランケさんの話にのって樺太に行くんですか?」

黙ってしまった尾形さんには、もしかすると何か私達の知らない目的があるのかもしれない。
誰にも話してはいけないような、そんな事情があるのかもしれない。

私は尾形さんにぎゅうと抱きついた。
逞しい身体に腕を回すと、ごく自然な手つきで優しく背中を撫でてくれる。

「何があっても絶対に離さないで下さいね」

「何があっても絶対に逃がしてやらねえと言ったはずだ」

そんな会話を交わして少しだけ安心してしまった私は、もうすっかりこの人に囚われてしまっている。

「よう、お二人さん。見せつけてくれるな」

キロランケさんが片手をあげて歩いて来る。
片腕には紙袋を抱えていた。

「保存食だが、何も食わないよりましだろう」

酒の瓶と乾パンのようなものを渡され、お礼を言って受け取る。

こんな日中からお酒なんて、これまでは飲む機会がなかったなあと思いながら、乾パンを口にしてお酒でふやかして飲み込んだ。

振り返って見れば、アシリパちゃんと白石さんが仲良く肩を並べて座り、同じように乾パンを食べていた。
当然、アシリパちゃんはお酒ではなくお水だ。

二人を眺めていると、キロランケさんが私を気にしている様子なのがわかった。

尾形さんに何か話があるんだな、と察してアシリパちゃん達のほうに行こうとしたら、尾形さんに止められた。

「こいつなら問題ない。話せ」

尾形さんにそう言われたキロランケさんは、煙管に火をつけて軽くふかしてから、静かに口を開いた。

「杉元まで撃つ必要があったのか?」

「のっぺら坊が父親だと確認された直後に杉元が何か言葉を交わした」

あの夜のことだ。

私は息を殺して二人の会話に聞き耳を立てた。

「金塊の在り処か…アシリパしか知らない暗号を解く鍵か…あるいはアンタのことか」

尾形さんはちらりとキロランケさんを見て続けた。

尾形さんの話によると、杉元さんは撃たれる瞬間、咄嗟にのっぺら坊を盾にして身体の中心を隠したのだそうだ。
だから、頭の端を引っ掛けるように撃ち抜くしかなかったのだとか。
もう数発打ち込んでおこうと思ったのだが、谷垣さんが二人を庇ったお陰でトドメを刺すには至らなかったということだった。
おまけに、弾薬は三十年式の『不殺銃弾』だったから。

「ひょっとしたら生きているかもしれんぞ。アシリパも奪われて、今頃不死身の杉元は怒り狂ってるかもな」

尾形さんのその言葉で、微かに芽生えていた希望が確信に変わった。

杉元さんは生きている。
そして、必ずアシリパちゃんを取り戻すために私達を追ってくる。

その時どうなってしまうのか。

いまはまだ、そこまでは考えられずにいた。


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