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■エピローグ


公安の降谷零

私立探偵の安室透

黒の組織のバーボン

トリプルフェイスを使い分けて多忙な日々を送る彼だが、本人は案外、ポアロでの仕事を『安室透』として楽しんでいるのではないだろうかと思われる節がある。
特に、ハムサンドなどの料理を作ることは、趣味と実益を兼ねたちょうど良い息抜きになっているようだ。

「毛利先生の所に差し入れに行ったら、ちょっとした修羅場になっていて困りましたよ」

屈託のない笑顔を見せる彼は、今はポアロのエプロンを着けていて、客として訪れている私の接客をしていた。

袖の下に隠された左腕の傷はまだ完治していない。
しかし、そんなことは全く感じさせない立ち居振舞いはさすがだと思う。
実際に怪我をしたところを目撃したコナンくん以外には、怪我をしていることさえバレていないようだ。

「コナンくんは?」

「阿笠博士の所だそうです。探偵団の友達も一緒に」

聞きたかったのはそういうことではないのだが、上手く誤魔化されてしまった。

「あれからまだ会っていないんですか?」

「ええ、まあ」

ちょっとだけバツが悪そうに安室さんは苦笑した。
以前工藤邸に乗り込んだ後、ポアロに顔を出したコナンくんに「嘘つき」と言われた時のことを思い出しているのかもしれない。

あの時、安室さんは「君に言われたくはないさ…」と返していたけれど、今度コナンくんと顔を合わせた時にはどうなることやら。

その様子を想像すると、化かし合いという言葉が頭に浮かんだ。

全く、これだから頭の良い男の人達は。

「それで、ご注文は何になさいますか?」

「ハムサンドと紅茶をお願いします」

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

笑顔で答えてカウンターに向かう安室さんを目で追う。
手際よくハムサンドを作るその姿は、やはりどこか楽しそうに見えた。

その様子を眺めながら、ぼんやりと考える。

もしかしたら、今回の事件が終わったら、役目を終えた私は消えてしまうのではないかと心のどこかでずっと思っていた。
元の世界に戻されてしまうかもしれない、と。

でも、そうはならなかった。
まだこの世界でやり残した使命があるからなのか、それともただ単に二度と元の世界には戻れないだけなのかはわからない。

そうして用意したハムサンドと紅茶を持って戻って来た安室さんは、紅茶をテーブルに置きながら

「今日はコーヒーじゃないんですね」

などと意地悪なことを言う。

この四日間ずっとコーヒーを飲んでいたせいか、コーヒーを飲むと胃が痛むようになってしまっていたのだ。
それを知っていて、知らないふりをする安室さんはいい性格をしている。

「どうぞ、ハムサンドです」

「ありがとうございます…?」

ハムサンドのお皿の下に何かが置かれている。
それは三つ折りにされた薄い紙だった。

「!?」

なんだろう?と広げてみて、慌ててまた畳み直した。
誰にも見られなかっただろうかと、キョロキョロと辺りを見回す。
これでは完全に挙動不審な人物だ。

「どうして隠すんです?」

「(降谷さん!)」

口パクで本名を呼ぶが、彼はにこにこと微笑むばかりで動じた様子はない。

折り畳まれた紙は、記入済みの婚姻届だった。
夫の欄には、当然の如く、降谷零とあり、後は妻の欄に私の名前を書くだけになっている。

ちなみに、保証人の欄には何故か風見さんの名前があった。
降谷さんに命令…頼まれて書いたのは間違いない。
どんな顔で記入したのだろうかと少し気の毒になった。

「書いてくれないんですか?」

さあ、どうぞ、とボールペンを渡される。

折り畳まれたままの婚姻届を前に冷や汗をかく私を、降谷さんは実に楽しそうに笑顔で見守っていたが、不意に内緒話をするように顔を近付けて、私の耳元に形の良い唇を寄せた。

「僕から逃げられると思った?駄目だよ、逃がさない」

熱っぽく甘い声で囁かれたその台詞の意味を理解すると同時に、青くなったり赤くなったりしたのはもちろん言うまでもない。


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